【訃報】原田要死去…「永遠の0」となった零戦パイロット。幼稚園を経営した想いとは

5月3日、零戦パイロットだった原田要さんが死去されました。享年99才でした。
死因は病気の多機能不全です。

零戦といえば、思い浮かぶのが小説「永遠の0」です。
原田要さんは文字通り「永遠の零戦パイロット=永遠の0」となられました。

原田要さんは、戦後は幼稚園を経営したのですが、そこには自身の幼稚園時代を踏まえての想いがあったようです。
 
 

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原田要 プロフィール


名前  :原田要(はらだ かなめ)
生年月日:(大正5年)1916年8月11日
出身地 :長野県浅川村
軍歴  :1933~1945年(大日本帝国海軍)
最終階級:海軍中尉

原田要さんは小さい頃から飛行機乗りに憧れていましたが、海軍に入隊したものの駆逐艦の乗組員でした。
海軍を選んだのは、軍服がかっこいいし軍艦で世界中を回れるからです。
陸軍の軍服は地味で演習もパッとしない印象でした。

飛行機乗りになることは上司や父親が反対しました。
しかし想いが爆発して親の承諾書を勝手に作って操縦練習試験を受け見事合格、海軍入隊から2年後に航空隊に入隊するのでした。

航空隊では「雷撃の神様」こと村田重治氏に教えを受け、2年後に操縦性を首席を卒業する優秀なパイロットでした。
実際の戦いでは、
1941年
真珠湾攻撃:上空直衛任務
1942年
4月セイロン沖海戦:敵機5機を撃墜
6月ミッドウェー海戦:敵機5機を撃墜
など。

真珠湾攻撃では、母艦を守る任務だったので、原田要さんは少しがっかりしています。
しかしその後の戦いでは、敵機を撃墜する活躍を見せています。

10月ガダルカナル島では被弾して重症を負い生死の境をさまよいました。
その後は戦場に復帰することなく終戦を迎えます。

原田要と永遠の0


ドラマや映画にもなった人気ベストセラー小説「永遠の0」で、主人公の宮部久蔵は特攻を拒否しています。
じつは原田要さんも、特攻を拒否したことがありました。

原田要さんは小説「永遠の0」を読んで、「宮部久蔵は彼のことではないか」と、いろいろな戦友たちの顔が思い浮かんだようです。
 
 

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原田要と零戦


零戦の機銃は、口径が大きく重量があるため威力があります。
しかしその反面、たくさん積めません。

イギリスの精鋭機ハリケーンなど、敵機部隊はそういったゼロ戦の性能をよく研究していたそうです。

弾数を節約するために、零戦パイロットは
・敵機パイロットの顔が見えるほど接近して撃つ
・敵機のスピードを見切って射撃する
・太陽や月明かりを見方につける
・帰艦時間を守る
という戦法をとっていました。
これらは「宮本武蔵」の兵法を取り入れたようです。

また、零戦のパイロットは最期を迎えるとき
・「天皇陛下万歳!」
・「大日本帝国万歳!」
と叫ぶというイメージがありますが、実際はそう言うパイロットはいないと原田要さんは語っています。
実際に叫ぶのは「おっかぁー」「かあちゃん」など、自分を産んでくれた母親のことだそうです。

原田要さんは元零戦パイロットとして本の出版に関わっています。

2000年:神立尚紀「零戦最後の証言II 」

2004年:神立尚紀「戦士の肖像」

2011年:原田要「零戦(ゼロファイター)老兵の回想」

2013年:原田要「わが誇りの零戦」

死去される前に本を残すことができて、よかったですよね。

また、昨年2015年には、
「ひとりひとりの戦場 最後の零戦パイロット」
という終戦70周年ドキュメンタリー映画にも出演しています。
↓こちら予告編です。

原田要 幼稚園


原田要さんは、戦後は幼稚園経営をしていました。
最初は農業の経営をしていたのですが、1964年に自治会長になったのが縁で託児所を開き、幼稚園の経営につながりました。

長野市内にある幼稚園で園長を務めていました。
98才になっても毎日幼稚園に顔を出して、子供たちと接していました。

原田要さん自身は、幼稚園時代に受けた影響によって「飛行機乗りへのあこがれ」を抱いています。
戦争への罪悪感は全くなく、勇ましい話に魅力を感じていました。
そのように、幼稚園時代がその後の人生に大きな影響を与えることを知っているから、幼稚園の経営を長く続けていたんですね。

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