ピーターノーマンの悲劇【メキシコ五輪 黒手袋の抗議運動】の銀メダリストに感動(アンビリバボー)

1968年のメキシコ五輪の男子200mの表彰式で、金と銅メダルの黒人選手2人が黒手袋をはめて拳を挙げる抗議運動をしました。人種差別に屈しない勇気ある行動です。
そのとき銀メダルだったオーストラリアの白人選手ピーターノーマンは黒手袋はしませんでしたが、「人権を求めるオリンピック・プロジェクト」のバッジを2人と同じく胸につけていました。

メキシコ五輪開催の1968年は、ベトナム戦争の反対運動に加え、アメリカで黒人の人種差別解消を求める抗議運動が盛んでした。
そんななかメダリストが黒手袋をはめて(ブラックパワーサリュート=拳を高く掲げ黒人差別に抗議する示威行為)を行ったので黒人2人はアメリカのスポーツ界から追放処分に。
ピーターノーマンは、地元オーストラリアで邪魔者、無視されるようになります。

それから実に44年後、ピーターノーマンが亡くなってから6年後、オーストラリアはついに公式謝罪しました。
詳しい内容が、1月26日のアンビリバボーで放送されます。
 
 

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■【メキシコ五輪 黒手袋の抗議運動】ピーターノーマンの悲劇 あらすじ


時をさかのぼること今から約30年前。
マット・ノーマン(当時12歳)の伯父ピーター(当時40歳)は
1968年メキシコオリンピックで銀メダルを獲得したトップ・アスリートだった。
しかし、マットにはある疑問があった。
陸上のメダリストともなれば英雄であり、引退後も活躍している者も多いはず。
だがピーターの名はオーストラリア国内でもほとんど知られておらず、
彼はアルバイトをして生計を立てていた。
一体なぜなのか。マットはピーターに理由を尋ねた。
そして、ピーターは語り始めた。

1968年のメキシコオリンピックに出場を決めたピーター。
当初、彼は全く期待されていなかった。
なぜなら彼が出る男子200メートル走には世界記録保持者のジョン・カーロスや
トミー・スミスといったアメリカの一流選手が出場者に名を連ねていたのだ。
ところがそんな前評判を覆し、ピーターは予選でいきなりオリンピック記録を更新し、
決勝進出を決める。
ピーターはその気さくな人柄からすぐにジョンやトミーと打ち解ける。
実はこの時、アメリカの黒人選手である2人は、ある特別な思いでこのオリンピックに臨んでおり、
そのことが、ピーターの運命をも一変させる、ある1枚の写真へとつながっていく。
引用:フジテレビアンビリバボー公式サイトより

■ピーターノーマンの悲劇 実話ネタバレ


ピーターノーマンはオーストラリア出身1942年6月15日生まれ。
2006年10月3日に亡くなった元短距離陸上競技選手です。
1968年メキシコ五輪で男子200m銀メダリストでした。

ピーターノーマンはメキシコ五輪に男子200mで出場が決まったとき、彼は期待されませんでした。
男子200mには
世界記録保持者のジョン・カーロスやトミー・スミスなど、アメリカのトップアスリートが出場したからです。
しかしピーターノーマンは想定外に活躍し、予選で五輪記録を更新して決勝へ駒を進めました。

迎えた男子200m決勝の結果は
1位19秒83アメリカの黒人トミー・スミス
2位20秒06オーストラリアの白人ピーターノーマン
3位20秒10アメリカの黒人ジョン・カーロス
となりました。
ピーターノーマンは見事銀メダルです。彼の出した記録はオーストラリアでは未だに破られていません。快挙です。

■メキシコ五輪 黒手袋の抗議運動(公民権運動ブラックパワーサリュート事件)

レースが終わり表彰式
金メダルのトミー・スミス
銀メダルのピーターノーマン
銅メダルのジョン・カーロス
が表彰台に向かいます。

ピーターノーマンはきさくな性格で、トミー・スミスとジョン・カーロスとは打ち解けていました。
レースが終わったあとすぐ2人の黒人は「人権を信じるか」と聞くとピーターノーマンは「信じる」と答えました。
2人は「人権を求めるオリンピックプロジェクト」のバッジを胸につけていました。
バッジは、五輪選手たちによる平等な権利を訴えるシンボルです。
当時のアメリカでの黒人差別に反対しての運動でした。特別な想いで五輪に臨んでいたのです。

そしてスミスとカーロスが
「ブラック・パワー・サルートをするつもりだ」
と打ち明けるとピーターノーマンは「私も味方だ」とバッジを指さして
「君たちが信じていることを僕も信じている。それ、僕の分もあるかい?そうすれば僕も人権運動を支持していることを証明できる」
と言いました。
スミスは白人のピーターノーマンが公民権運動を支持することに驚きました。
バッジは2個しかなかったので、ピーターノーマンは他のアメリカ人選手からバッジを借りて胸につけました。

スミスとカーロスはバッジ以外に
黒人の貧困を象徴するためにシューズを履かないで黒いソックスを履きました。
金メダルのスミスは
黒人のプライドを象徴する黒いスカーフを首にまといました。
銅メダルのカーロスは
「白人至上主義団体」からのリンチを受けた人々を祈念するために、ロザリオを身につけました。

金メダルのスミスは黒手袋も用意していました。
しかし銅メダルのカーロスが黒手袋を忘れてしまい、ピーターノーマンの提案で左右の黒手袋をスミスとカーロスで分けてつけました。
スミスが右の黒手袋・カーロスが左の黒手袋。

3人がメダルを受け取ると、アメリカ国歌の演奏が始まり、星条旗が掲揚されました。
するとスミスとカーロスは
頭と目線を下に向けて、黒手袋をはめた握り拳を高く突き上げたのでした。

会場の観客たちは一斉にブーイング。
メキシコ五輪の黒手袋抗議運動は、世界中のニュースで報じられました。
この時撮られた1枚の写真は、その後のピーターノーマンの運命を一変させることに。


 
 

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■ピーターノーマンの悲劇 IOC「国際オリンピック委員会」の対応


IOC「国際オリンピック委員会」の反応は素早いものでした。
五輪の場で政治的なパフィーマンスを行うことは、非政治的で国際的な場である五輪に相反するものだからです。

「オリンピック精神の基本原理に対する計画的で暴力的な違反」という理由で
金メダルのトミー・スミス
銅メダルのジョン・カーロス
はアメリカチームから除名され出場停止、選手村からも追放されました。
アメリカスポーツ界からは事実上の追放処分です。

銀メダルのピーターノーマンも、黒手袋の抗議運動に同調したので無事では済みませんでした。
当時のオーストラリアは、アメリカと類似した白人最優先主義と、それに基づく非白人への排除政策が存在していたからです。先住民族アボリジニに対して排除政策が行わていました。
そんななか、ピーターノーマンのように白人が黒人と一緒に公民権運動を行うのは、オーストラリアでの彼の人生を自ら破壊するような危険な行為でした。

ピーターノーマンは同僚選手からも批判されて、オーストラリアのマスコミからも邪魔者扱いされました。
疫病神のような存在に・・・。

メキシコ五輪の次の1972年ミュンヘン五輪で、ピーターノーマンが予選3位という良い結果を出したにもかかわらず、もはや存在しないかのように、代表選考から落とされました。
そのあとも競技生活を続けたのですが、アキレス腱が壊疽して、足を切断寸前まで悪化して引退しました。

引退後は、体育の教師や肉屋など、職を転々としました。
家族までもが社会から疎外され、うつとアルコール依存症にも苦しめられながら、2006年10月3日心臓発作で亡くなりました。

葬儀には、スミスとカーロスが駆け付け、棺を担ぎました。
オーストラリアでは無視され続けたピーターノーマンでしたが、メキシコ五輪で同調した友人を彼はは忘れておらず、棺側付添い人を務めてくれたのです。

■時を経てオーストラリア政府がピーターノーマンに謝罪


ピーターノーマンが亡くなるまで、母国オーストラリアは何ひとつ謝罪をしませんでした。

しかし彼の死から6年後の2012年
オーストラリア政府は正式に謝罪をしました。
8月20日
ピーターノーマンの家族の支持を受けたアンドリュー・リー労働党下院議員が「ノーマンへの死後謝罪」動議を提出したからです。

オーストラリア政府は
「何度も予選を勝っていたにもかかわらず、1972年のミュンヘンオリンピックに代表として送らなかったオーストラリアの過ちと、ピーター・ノーマンの人種間の平等を推し進めた力強い役割への認識に時間がかかったこと」
と謝罪しました。

ピーターノーマンの人生は
たった一人の人間でもどれほど世の中を変えることができるかを示した話となりました。
 
 

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