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「日本の細菌学の父」と呼ばれる世界的な細菌学者の故・北里柴三郎さんにいま注目が集まっています。それというのも、ノーベル賞(ノーベル医学生理学賞)の受賞が決まった大村智さん(80才)が勤めていた北里研究所と北里大学は、北里柴三郎さんに由来するからです。
第1回ノーベル医学生理学賞の候補に挙がりながらも、受賞を逃してしまった北里柴三郎さんですが、その功績やエピソードにはスゴイものがありました。
北里柴三郎の功績
北里柴三郎さんは、1889年に破傷風の「血清療法」を確立しました。この功績によって世界的な研究者としてその名を知られることとなりました。
北里柴三郎の経歴・エピソード
1853年に、熊本県阿蘇郡小国町で生まれた北里柴三郎さんは、
1871年、18才のときに熊本医学校に入学、オランダ人医師のマンスフェルトさんい師事して医師を目指すことに。
1874年、東京医学校(現在の東京大学医学部))に入学、「医者の使命は病気を予防すること」という信念をもち、予防医学にその生涯を捧げることを決意したのでした。
1883年、大学を卒業後、予防医学を実践するため内務省衛生局に。
1886年、その年から6年の間ドイツ留学をして、病原微生物学研究の第一人者ローベルト・コッホさんに師事して、研究に没頭します。
1889年、ドイツ留学中に、破傷風菌の純培養に成功し、さらに破傷風菌の毒素に対抗する免疫抗体を発見しました。それを応用して「血清療法」を確立、この世界的な功績によって名声を手に入れました。
1892年、日本に帰国した北里柴三郎さんは、福澤諭吉さんなどの手を借り私立伝染病研究所を設立しました。ここでは、伝染病予防と細菌学の研究に取り組むのでした。
1893年、日本で最初の結核治療専門病院「土筆ケ岡養生園(現在の北里研究所病院)」を設立。結核予防とその治療にちからを尽くします。
1984年、日本政府から香港に派遣され、そこに蔓延するペストの病原菌「ペスト菌」を発見し、予防医学の先駆者としてさらに活躍を続けました。
1914年、伝染病研究所が内務省から文部省に移管され、これを契機に同所長を辞任し、すぐに私立北里研究所を設立しました。
そのほかの功績として、「慶應義塾大学医学部の創設」「日本医学会の創設」など、教育から社会活動に至るまで様々なところで活躍し功績を残しました。
1931年、6月13日に脳溢血によって息を引き取りました。享年78歳でした。
1962年、北里柴三郎さんが1914年に設立した「北里研究所」が50周年を迎えた記念に、東京都港区白金に「北里大学」が誕生したのでした。
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