_
1979年、羽田発・南紀白浜行きの東亜国内航空機が、上空で左側の車輪が出ないというトラブルに見舞われました。乗客乗員71名が乗るこの旅客機の操縦桿を握るパイロットは、25才で国内最年少で機長になった塚原利夫さんでした。
そして、乗客のなかには大物女優の由美かおるさんの姿もありました。そんな緊急事態のなか、塚原利夫機長は乗客を安心させるために、現在では考えられいない方法をとることに。 「当機は片脚のまま胴体着陸を行います」 ・・・乗客はパニックになったといいますが・・・詳しい内容は2015年10月19日(月)20時00分からTBSで放送の「世にも不思議なランキング」にて紹介されます。
目次
出発
1979年7月21日、あさ8時38分。東亜国内航空機381便(YS−11機)羽田発・南紀白浜行きは、乗客乗員71名の満席で羽田空港を離陸しました。パイロット機長は、25才で国内最年少で機長になった、経験5年目の塚原利夫さんです。
また、この便の乗客には、当時28才の人気大物女優、由美かおるさんが、南紀白浜で行われる午後のステージのため偶然乗りあわせていました。
車輪が出ないことが判明
飛行機が羽田を飛び立ってから、塚原利夫機長が車輪を格納しようとした際、車輪格納と同時に消えるはずのランプのうち、左後輪のランプだけがほんのちょっと遅いことに気付きました。塚原利夫機長は「もう一度車輪を出して格納しなおすよう」副操縦士に指示し、その時に左後輪が出ないことがわかりました。
副操縦士は車輪を出すために何度も必死でスイッチを操作したのですが、その音が大きかったらしく、客室にいる乗客にまで音が聞こえたので乗客たちは、何かトラブルだろうかと不安になりました。
車輪が出ないことが判明
8時53分、離陸から15分後のことです。塚原利夫機長は羽田管制塔に「引き返したい」と連絡をしましたが、羽田管制塔からの返事は、「房総半島沖で待機するように」というものでした。
塚原利夫機長は機内アナウンスで、左の車輪が出ないこと・南紀白浜には行かず羽田に戻ること・胴体着陸の可能性があること・出来る限りの手を尽くすこと を乗客に伝えました。しかし、アナウンスを聞いた乗客たちの不安は一気に高まりました。
塚原利夫機長 乗客ひとりひとりに説明
多くの乗客から、万一の時にはどうなるのか教えてほしいと言われ、塚原利夫機長は操縦を操縦士に任せて、客室の通路に立って説明をしました。説明を終えたあとは、乗客の不安を拭おうと心を開いてひとりひとりの質問を答えていきました。
乗客のなかに、女優の由美かおるさんがいることに気付いたときは、「由美さんですね、大丈夫ですか?」と声をかけて、彼女も「大丈夫です」と明るく答えたそうです。
ただ、乗客のなかには、塚原利夫機長があまりに若かったため、機長を出せと言い寄るひともいたそうです。自分が5年間機長をしていることを話しても、若い機長に不安を憶えるひともいましたが、塚原利夫機長は操縦席に戻ることしかありませんでした。
塚原利夫機長 乗客を安心させるための驚きの行動
乗客の不安を拭いきれなかった塚原利夫機長は、乗客からの信頼を得るため副操縦士に今では考えられないような驚きの提案をします。
それは、「操縦しているところを乗客に見てもらう」というものでした。
乗客が操縦室に入ることはハイジャックを防止するために固く禁止されていますが、当時は、緊急時のすべて機長の判断に委ねられていました。乗客に見てもらうことを決めると、子供たちが操縦室にやってきて興味津々に質問をしてきました。塚原利夫機長たちは子供たちに明るく答えました。これを見た乗客たちはパイロットが普段通り冷静に操縦をしているとわかり、とても安心したそうです。
普段見ることの出来ない操縦席ということで、機縁撮影したり、パイロットに握手を求めるひともいたんだとか。客室からは絶対に見ることのないパノラマ展望も拝めてすっかりリラックスできたようですね。
30分間の”見学会”を終えた乗客たちは「あとはあなたたちにおまかせするしかないのでよろしくお願いします」と、塚原利夫機長の肩を叩いて客室へ戻っていき、見事乗客からの信頼を得ることに成功したのでした。
塚原利夫機長 いよいよ着陸
10時45分、381便は急上昇と急降下を繰り返して車輪を出そうとしましたが、残念ながら車輪は出ませんでした。離陸から2時間以上が経過し、燃料もなくなってきているのでついに着陸のときです。
10時58分、381便は羽田管制塔に緊急事態を宣言し、羽田空港は一時閉鎖されました。塚原利夫機長は、胴体着陸よりも衝撃が少ない片輪着陸をすることを決めます。そして、衝撃で機体が損傷する可能性があるため女性や子供を通路側へと移動させました。ここでも塚原利夫機長は乗客をリラックスさせるために「ジェットコースターを1~2分楽しんでくさい」
塚原利夫機長はバランスを調整しながら滑走路へアプローチしました。そして、381便は絶妙な角度で滑走路へ侵入し、前輪と右後輪でバランスを取りながらスピードを落として左の翼をゆっくり滑走路におろして滑走しました。
左翼が接地すると、381便は右に150度回転して、滑走路から少し外れてついに停止、11時40分、着陸は成功しました。乗客乗員全員無傷でした。ちなみに右に回転したのは、排水溝が見えたのでそこに車輪がハマってひっくり返るのを避けたためです。最後まで機転のきく機長でした。
着陸後、操縦席から塚原利夫機長が出てくると、乗客たちから拍手が沸き起こったそうです。
余談ですが、塚原利夫機長はこのフライトに乗る予定はなかったのですが、欠員が出て急遽ピンチヒッターになったのでした。
左後輪が出なかったのはなぜ?原因は?
左後輪が出なかった原因は、車輪が格納される際に車輪をロックする部品が、金属疲労によって折れてしまったことでした。整備不良ではなく、機体の組み立て時に、組み立てる順番を間違ってしまい、そのせいで部品に余計な負荷がかかったからだそうです。組み立てを間違えるなんてこと、あるんですね。
ちなみに、塚原利夫機長は今もその部品を持っているんだとか。
この記事へのコメントはありません。