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1933年の1月と2月、親友の自殺を見届ける「死の立会人」が注目された「三原山自殺事件」が起こりました。
この事件をきっかけにして、三原山の火口に飛び降り自殺する人が次々と現れ、その年は年間900を超える人々が亡くなりました。
「死の立会人」の彼女は、親友2人が火口に身を投げる自殺の瞬間に立ち会っていたのです。いったいなぜ自殺したのか?いったいなぜ2人の自殺に立ち会ったのか?2015年10月21日(水)21時00分からテレビ東京で放送の「ニッポンお騒がせ人物伝」で明らかになるようです。
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目次
三原山自殺事件の登場人物
★自殺者
●松本貴代子(21才)・・・1933年2月7日に自殺
実践女学校専門部の国文科2年生。万葉集や金塊集が好きな文学少女。
結婚を嫌う潔癖主義者で、同居している87才の祖母が足腰が立たなくなっていくのを見ることを嫌って、自宅で朝食をとることを辞めたほどです。
1932年(昭和7年)春に同級生20人と行った三原山の大自然に魅了されました。
●真許三枝子・・・1933年1月8日に自殺
★死の立会人
●富田昌子(21才)・・・貴代子の親友
貴代子さんとは親友同士で、お互いの兄も仲が良かったです。貴代子さんからはいろいろなことを相談される関係でした。
★貴代子を説得した
●松岡福子(21才)・・・貴代子と昌子の共通の友達
友達の間では「松岡青絹」というペンネームを使っていた。
●松岡福子の母親・・・貴代子を説得した
1933年2月11日 松本貴代子が自殺
松本貴代子さんは以前から家族や親友に「19歳になったら死ぬ」「自分の死体は人目にさらしたくない」と宣言して、富田昌子さんに、自分が自殺するときに立ち会ってほしいと何度も話していました。
1933年(昭和8年)2月7日の夕方、富田昌子さんは友達である松岡福子さん宅を訪れ、彼女の母親に、「貴代子が自殺するかもしれないから思い留まらせてほしい」と懇願しました。
その様子があまりにシビアだったので、福子さんと両親は
2月8日の夕方5時から2時間に渡り、貴代子さんの説得を試みましたが、貴代子さんは明るく笑顔でした。
2月11日午後、心配な松岡福子さんは貴代子さんを誘って散歩にでかけ、今度新橋演舞場の芝居を見に行く約束をして別れました。
福子さんと別れたあと貴代子さんは、渋谷区中通りに下宿している親友の富田昌子さんのもとを訪れ、「最期を見届けてほしい」と懇願し、2人はその日の夜のうちに東京湾汽船菊丸に乗船して大島へ向かいました。
そして、富田昌子さん立会いのもと、貴代子さんは三原山の火山口に飛び降り自殺しました。
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松本貴代子の遺書
松本貴代子さんは「富田昌子さん宛」と「松岡福子さんの母親宛」の2通の遺書を残していていました。
「松岡福子さんの母親宛」の遺書には、
自殺を説得してくれたことに対する感謝の気持ちと
最終的に裏切るかたちになってしまって申し訳ない謝罪の気持ち
が綴られていました。
1933年1月8日 真許三枝子の自殺にも立ち会っていた
松本貴代子さんの自殺のあと、衝撃の事実が判明します。
松本貴代子さんの自殺に立ち会った富田昌子さんでしたが、実はもうひとりの自殺にも立ち会っていたことが発覚しました。
1933年1月8日、親友の真許三枝子さんが三原山の火山口に飛び降り自殺する際、富田昌子さんが立ち会っていたのです。
世間の目は富田昌子へ 変質者・狂人扱い
二人の親友の自殺に立ち会っていた富田昌子さんは世間の注目を浴び、罵られ変質者・狂人扱いされてしまいます。その精神的ストレスのせいか、昌子さんは持病が悪化して部屋に引きこもり寝込むようになってしまいました。
1933年4月29日、昌子さんは埼玉県の実家で変死しました。これにより、二人の自殺の真相や、昌子さんが自殺に立ち会った真相は謎のままとなり、三原山は自殺の名所と呼ばれることに。
1933年(昭和8年)、この年、三原山では、男性804人・女性140人のあわせて944人もの人が飛び降り自殺しました。
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