チフス菌「毒まんじゅう」殺人事件 愛を信じた広瀬菊子の悲しすぎる犯行に女性たちは涙した

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【チフス菌「毒まんじゅう」殺人事件】とは、チフス菌が混入された「かるかん饅頭」を送られた医師Hの一家が、チフス菌に集団感染して、Hの弟が亡くなった事件です。

犯人はHの内縁の妻だった39才の医師、広瀬菊子。彼女は正式に結婚する約束を信じてHに5年間もの間、金を貢がされていたのです。

2015年10月21日(水)21時00分からテレビ東京で放送の「ニッポンお騒がせ人物伝」で詳しく紹介されます。
 
 

 
 

HとAの出会いから別れ


広瀬菊子(39才)は、神戸市立市民病院で働いていたとき、実習に来ていた医学生のAと恋に落ちました。
実習の最後の日、HはAにプロポーズしましたが、正式に婚姻届を出すのは、Aが博士号を取得して正式に医師となってからにしようと約束をします。

こうして菊子は内縁の妻となり、結婚式を内々に済ませて、ハネムーンは菊子が費用を出しました。そして、10日間の同居生活のあと、菊子は実家に戻って開業医となり働きながらAに5年間ずっと毎月の学費を仕送りしていました。

しかし実はHの家族からは、菊子は「妾女、淫婦」だと影で白い目で見られていました。

やがてAが医師になり、菊子がAに会いに行くと、なんと「親戚の女です」と周りに紹介され、冷たい態度を取られ、しかもAの家族からは縁を切るように言われてしまったのです。

Aには菊子の他に女がいることもわかりました。それでも1ヶ月いっしょに暮らしましたが、世間体を気にするA一家は、Hの存在を隠したいのかカーテンを閉められ外出を許さず、玄関から靴を隠されることもありました。

また、Aの妹からは「菊子姉さんは賢者としては偉いかもしれないけど、家庭人としてはゼロだ」と罵られました。

菊子とAは結局離婚しました。しかしなぜか弁護士はAに同情的でした。慰謝料はもらえましたが、自分の荷物は着払いで送り返されました。こんな状況なので、菊子は実家に帰ることもできなくなってしまいました。
 
 

 
 

チフス菌入り毒まんじゅうを送る


1939年(昭和14年)4月25日、A一家を恨んでいる菊子は、大丸百貨店で「かるかん饅頭」を1箱購入し、培養していたチフス菌を注射器で饅頭に注入しました。
そして、その「かるかん饅頭」を、Aが副院長を務める舞子病院の元患者の名前を使って、A家に送ります。

「かるかん饅頭」は、AとAの弟が食べて、残りは妹が勤務先の小学校で食べるために持って行きました。

チフスを発病


1939年5月、Aの妹が、勤務先の神戸市立川池小学校(現在の会下山小学校)へ「かるかん饅頭」を持って行き、先生たちに配ってみんなで食べました。

すると、9人がチフスを発病しました。
Aと弟、妹も発病しました。

1939年5月15日、Aの弟は亡くなりました。

こうして事件が発覚しました。

チフスとは?


チフスとは、細菌感染症の1種で、高熱や発疹を伴い、
チフス菌の感染による死亡の確立は18~20%といわれています。
アンネの日記で有名なアンネ・フランクが亡くなった原因もチフスです。

1924年に東京女子医専(現在の東京女子医科大学)を卒業後、医師になった菊子は、細菌研究所に出入りしていました。

事件後


チフス菌「毒まんじゅう」殺人事件は、連日のニュースとなり、世間を騒がせました。

被害者Aよりも菊子に対して同情する女性が多く、減刑を求める声も上がりました。
裁判でHサイドは、Aに肉体的・精神的・経済的にダメージを与えるのが目的で、殺すつもりはなかったと主張し、傍聴席は菊子に同情した女性たちで埋め尽くされ中にはすすり泣く女性もいました。

神戸地方裁判所は、同情の余地があると認め、無期懲役に対して懲役3年の判決を下しました。
 
 

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