京谷和幸の交通事故は飲酒運転の噂が。現在は嫁の三木陽子と子供たちに囲まれ幸せに暮らす

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京谷和幸さんは北海道室蘭市出身・1971年8月13日生まれの現在45才。
実話ドラマ「君に捧げるエンブレム」の原作モデルになっている元Jリーガーです。

高校卒業後、ジェフ市原と契約しJリーガーになりましが、結婚式前に交通事故で選手生命を絶たれ・・・
その後、車いすバスケに出会い、日本代表入り。
交通事故で絶望に陥った京谷和幸さんを支えたのは、嫁の三木陽子さんでした。
※飲酒運転だったという噂もあるようですが?

2000年シドニー~2012年ロンドン五輪まで4大会連続でパラリンピックに出場!
パラリンピック出場をめざすきっかけを与えたのは子供でした。
嫁の三木陽子と子供たちの存在が、京谷和幸さんを強くしているようです。
現在は競技を引退し、車いすバスケとサッカー、二刀流の指導者として活躍中。

実話ドラマ「君に捧げるエンブレム」の原作として、モデル京谷和幸さんについて詳しく紹介します。
 
 

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■感動実話【君に捧げるエンブレム】京谷和幸 Jリーガー時代は倣慢だった


京谷和幸さんをモデルにしたドラマ「君に捧げるエンブレム」は、実話を原作にしたニューマンラブストーリー。
いわゆる感動実話ものです。

幼いころからスポーツ万能だった京谷和幸さんは、名門・室蘭大谷高校に進学。
全国高校サッカー選手権大会に3年連続で出場。
バルセロナ五輪代表候補にもなりましたがサッカー選手を目指したのは小学5年生のとき。

当時、スペイン・ワールドカップで、のちに一緒にプレーすることにもなるリトバルスキー選手を見て「こんな選手になりたい」と思ったのがJリーガーを目指したきっかけでした。
高校で全国大会に出ていろいろなところで有名になればJリーガーとしてスカウトされるのではと考えたのです。
思惑を的中し、最終的には熱心に誘ってくれたジェフ市原に入ることに。

京谷和幸さんにとってサッカーはすべてであり、自分は天才!自分が一番!
誰のことも褒めず認めず、オレに感謝しろなど、現在の穏やかな笑顔からは想像できない、かなり傲慢な性格だったそうです。

1993年Jリーグが開幕
この年の秋、晴れてJリーガーになり、ナビスコカップで晴れて公式戦デビュー!
しかしある日、車を運転していた京谷和幸さんは電柱に激突。
病院に運ばれました・・・

■感動実話【君に捧げるエンブレム】京谷和幸 交通事故から支えた嫁・三木陽子


1993年11月28日の朝4時すぎ
前の夜からジェフ市原のチームメイトと話し込んでしまい朝帰りになってしまいました。
この日は結婚式の衣装合わせ。
どうしても早く帰らなければと急いでいた自分がいました。
小雨が降る中、スピードを出し過ぎたようです。

※飲酒運転という噂がありますが真実は不明です。ウィキペディアには以前、飲酒運転と記載があったようですが削除されています。

そのとき、脇から車が出てきて、ハンドルを切ったところまでは覚えているが・・・
電柱に激突したことは、記憶が飛んでいて覚えていないといいます。
気が付いたら病院でした。

はじめ京谷和幸さんは、怪我が治ったらサッカーに復帰できると思っていました。
負傷した箇所は胸椎の5・6番。
ちょうどミゾオチの下から感覚がないような感じはあったが、強いしびれがあったので、しびれが取れれば再び足に力が入るだろうと思っていました。

しかし医師から「こんな症例は初めて。車いす生活になります」
宣告された日は、頭の中が真っ白に。

もうサッカーは出来ない・・・。
絶望的になった京谷和幸さんを支えたのは、この時まだ婚約者の三木陽子さんでした。
三木陽子さんは、京谷和幸さんが事故を起こして1週間前後、急に枕元に来て「入籍しよう」と言ったそうです。
「なぜ今なのか?」意味がわからず・・・退院してリハビリして復帰してからで充分だと思ったから。
その時はまだサッカーをやれると思っていたので。
彼女は「今でなきゃダメだ」と。

サッカー選手としての道は絶たれたが入院中に婚約者・三木陽子さんと入籍。
一生の伴侶を得た京谷和幸さん。

↓左が嫁・三木陽子さん

 
 

 
 

■感動実話【君に捧げるエンブレム】京谷和幸 絶望からの復活は嫁・三木陽子のおかげ


新たな生きがいを見つけたのも、嫁・三木陽子さんがきっかけでした。

嫁・三木陽子さんは障碍者手帳を交付しに市役所に手続きに行ったときのこと。
そこで手続きをしてくれた職員も車いす。のちに京谷和幸さんが入団することになる「千葉ホークス」のベテラン小滝修さんだったのです。
いろいろ相談していく中で、サッカーをやっていたのなら車いすバスケがあるからどうだ?と嫁・三木陽子さんを介して、入院中に聞きました。
嫁・三木陽子さんのおかげで、車いすバスケと出会うことが出来たのです。

早速試合を見学に行った京谷和幸さん。
場所は所沢のリハビリテーションセンターにある体育館。
最初に試合を見た時の感想は正直なところ『オレにも出来る』『この程度ならいずれは日本代表にもなれる』でした。
ところが、退院して「千葉ホークス」の練習に参加してみると・・・
体育館に入った瞬間、空気が変わったのを感じました。
スピード・パワー・テクニック、これはスゴイ、全てにおいて自分が観たのとは違う異次元なことをやっているとわかりました。
話を聞くと、最初に見学したチームは京都の最下位で、「千葉ホークス」は日本一だったのです。
「千葉ホークス」には日本代表が何人もいて、そんなチームをプレーを見せられて今度は『無理。こんなの出来ないよ』と思ってしまったんだとか。

無理!と思った車いすバスケ。
ところがひょうんなことから京谷和幸さんは真剣に取り組むことに。

1番のきかっけは、千葉県の代表として国体に参加させてもらったこと。
退院してすぐに、愛知県の名古屋で国体が開かれており、人数が1人足りないからという理由で、半ば強制的に参加しました。
その試合で、タイムアウトの時にコーチが選手たちに指示をしているのを目の当たりにして『これはスポーツだ』と感じました。
これならもしかしたら、サッカーで志半ばで失った輝きをもう一度取り戻せるかも!という想いが芽生えたそうです。

■感動実話【君に捧げるエンブレム】京谷和幸 千葉ホークス~引退まで


■千葉ホークス
京谷和幸さんは日本一の強豪「千葉ホークス」で本格的にプレーすることに。
元Jリーガーなので運動能力に自信はありました。
しかし実際にプレーしてみると一筋縄ではいかなかった・・・

車いすバスケを初めて苦労したことは・・・
まず車いすに慣れること。これは現役を引退するまで追求していたことです。
その中のひとつ、ブレーキング。車いすを素手で止めなければいけない、最初は痛い。
手の皮が何回もむけて、血が滲みでてきてテーピング巻いても、すぐにズレてしまう。
手の皮が厚くなるまで時間がかかったことが、一番苦労したこと。

だんだんと車いすを自在に動かすことが出来るようになってきた京谷和幸さん
気付いた時には車いすバスケに虜になっていました。

■日本代表
2000年シドニー五輪
京谷和幸さんは車いすバスケ日本代表として初めてパラリンピックに出場。
開幕戦は地元オーストラリア。ゆかの下からドンと突き上げてくるような歓声。
武者震いをして『やっと自分はこの舞台に帰ってくることができた』と思い『この舞台・この場所は絶対オレのものだ。ほかの人に渡したくない』と思ったそうです。
日の丸に対する自覚・責任・誇りは、サッカー時代もU-18~20で日の丸を背負って戦っていたので、日本代表として日の丸の想いはずっとありました。
その『日の丸の想い』を思い出せさてくれました。
プレッシャーはありませんでした。

しかしシドニー五輪でどうしても許せないことが一つ。
同じ日本代表のメンバーで、試合が負けて終わったのにヘラヘラしているのを見たとき『これが日本代表なのか?』と。
五輪は『参加することに意義がある』と言いますが、京谷和幸さんは『参加して結果を出すことに意義がある』とずっと思っていたので、日本代表メンバーの考え方を根本から変えさせなければいけないと思いました。
そうしないと日本は強くならないと思いました。

その後、京谷和幸さんはシドニーに続き
2004年アテネ五輪
2008年北京五輪
2012年ロンドン五輪
と4大会連続でパラリンピックに出場。
一番印象に残っている大会、最初のシドニーと、最後のロンドン。

ロンドン五輪は、車いすバスケ人生の集大成!
実は、2008年北京五輪が終わってから、引退を決めていたんだとか。
北京五輪では日本選手団の主将を務め、障害者アスリートの中では名前も売れました。
プレーヤーとしてのパフォーマンスも最高レベル。
そこで満足していた自分がいたようです。

しかし北京五輪後に、ある人にこう言われたのです。
「おまえが現役を続けていることが一番の社会貢献になるんだぞ。現役を続けられるうちは、現役を続けたほうがいい」
これがきっかけで現役を続け、ロンドンの引退で泣くことはなく『やりきった』という、すがすがしい気持ちの方が大きかったとか。

■現役引退
京谷和幸さんは宣言通りにロンドン五輪を最後に現役を引退
当時41才で、指導者として新たな道を歩むことになった

もしかしたら気持ちであと2~3年引退を伸ばすこともできた
しかし自分の代わりになる選手が出てこないと日本は絶対強くならないと考えました。
千葉ホークスの選手たちにも、日本代表の選手たちにも、『次はおまえたちの世代だから、今から色々なものを盗んでいけ』と伝えていました。

■現在
現在は車いすバスケの関東ブロック指導部員として後進の指導にあたっています。
週一回、千葉ホークスの練習に、自分の体を動かしがてら後輩たちを指導。
また、関東ブロックの強化育成として、ジュニア世代から、日本代表を目指すような世代までをピックアップして大会に出るなど活動しています。
技術や戦術ではなく『戦う姿勢のない者はいらない』『気持ちのない者は帰れ』という方針で。

■感動実話【君に捧げるエンブレム】京谷和幸の子供たち


京谷和幸さんには愛する嫁・三木陽子さんとの間に出来た子供が2人います。

1996年2月6日生まれの20才の長女。
現在は大学生なんだとか。スポーツはバトンワリングをしているそう。
長女が生まれたときは、交通事故から1年3ヶ月後のこと。
「この子が誇れる父親になりたい」との想いで、京谷和幸さんはパラリンピックを目指す決意をしたのでした。

長女のあとに生まれた長男は2015年4月に高校生になり、スポーツは父親と同じくサッカー!
長男は、寮生活を送っているそうなので、本格的にサッカーに励んでいるのでしょうか。

■ネットの反応



 
 

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