女好きでモテ男の加島祥造【お手伝いさんも若い女】自由と引き換えに嫁も息子も捨てた詩人

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詩人の加島祥造(かじま しょうぞう)さんが
2015年12月25日のクリスマスに死去していたことがわかりました。
享年92歳だったといいます。老衰死のようです。

加島祥造さんは女好きとしても知られるモテ男で、
晩年の1人暮らしでは、10部屋もある大きな家で
若い女のお手伝いさんに世話してもらっていたといいます。
なんだか、男としてはひとつの理想の老い方ではないでしょうか。
ただ、自由と引き換えに嫁も息子も捨ててしまったわけですが。
 
 

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加島祥造 プロフィール


加島祥造(かじま しょうぞう)さんは、
1923年1月12日生まれで本名は加嶋祥造といい、
職業は、詩人・翻訳家・タイオイスト・墨彩画家でした。
※「タイオイスト」とは、老子の教えである「道教」を実践する人のことで、
道教は別名「老荘思想」ともいい、欧米ではタイオイズムと呼ばれます。

学歴はエリートコースで、
1946年23才の頃に早稲田大学の文学部英文科を卒業後、
1954年31才の頃にアメリカのカリフォルニア州クレアモント大学の大学院で修士課程を修了し、
1955年32才の頃に信州大学の講師・助教授、そして
1967年44才の頃に横浜国立大学の教育学部の教授、
1986年63才の頃には青山学院女子短期大学の教授を務めています。

これだけでもスゴイ経歴ですが、
ノーベル賞作家のウィリアム・フォークナーや
「トム・ソーヤーの冒険」の著者マーク・トウェインの翻訳を手がけています。

63才で青山学院の教授を務めていますが、
1990年67才の頃、自由を愛した加島祥造さんは、教授の仕事を捨てて
長野県南部の伊奈谷に移住しました。
衝撃なのは、その際に家族(妻の利子さんと息子)さえも捨てていることです。
当時、息子さんは18才だったとか。

加島祥造 お手伝いさん


自由のために家族を捨てて、伊奈谷に移住した加島祥造さんでしたが
家事は自分では全くしないので、
孫と同い年くらいの女性のお手伝いさんたちを、アシスタント兼任で雇ったようです。
髪の毛の手入れまで世話してもらっていたんだとか。贅沢ですね。

周りに若い女性がたくさんいると、
きっと気持ちも若くいられたでしょうね。
 
 

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加島祥造 女にモテる


2007年84才の頃に詩集「求めない」が、
2012年89才の頃には「受け入れる」が大ヒットした
加島祥造さんですが、大変女性にモテたことでも知られています。

加島祥造さん自信も、女性が好きで、女好きとして知られていたそうです。
なんでも、
・うまい飯
・自然と遊ぶ自由
・好きな女性たち
これらの為には、経済的な豊かが必要だと語っていたそうです。
実際、加島祥造さんは年金以外に本の印税があったので、
経済的豊かさは手に入れていましたね。

加島祥造さんが最後に愛した女性は、
ドイツ人の女医、アムさんだっといいます。
出会ったのは80才のときの個展で、
それから8年後、88才のときに、
アムさんは白血病でなくなりました。

アムさんの死は加島祥造さんにとって
あまりにショックで、
いっしょに歩いた散歩道を歩くことが出来なくなったほどだそうです。

加島祥造 息子


加島祥造さんの息子の加島牧史さんは、
翻訳編集者をしていましたが、銀座でギャラリーバーKajimaを経営するようになっています。

加島祥造さんが自由と引き換えに家族を捨てたとき
息子さんは18才でした。
それから25年後、銀座のバーに加島祥造さんは行ってようですが、
息子さんからは歯に衣を着せぬ言葉を浴びせられ、従順だったといいます。
 
 

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コメント

    • 千秋英二
    • 2016年 1月 23日

    きのうの夜は、悲しさと虚無感にさいなまされて、ほとんど寝ることができませんでした。

    横浜国立大学の恩師である加島祥造先生が昨年のクリスマスの日にお亡くなりになられたということを、大学の先生から聞いて、びっくりしてまさかと思いました。訃報を聞いた瞬間は、あまりもの悲しさに、教え子として親を失った悲しみに襲われました・・・。
    昨年の夏に、私の人生の道を切り開いていただいた加島祥造先生に32年ぶりに、お手紙を書いてお住まいの長野県までご挨拶に伺いたいとお伝えしたところ、猛暑で体がきついので、秋になったら遊びに来てほしいとの連絡を受けました。

    しかし、私が仕事が忙しくなり、冬になってしまいましたので、先生にもご迷惑かと思い、今年の春になったら伺いたいと思っておりました。

    加島先生、本当にご連絡してお約束して、伺えず、本当に申し訳ありませんでした。先生に人生の指針を教わったことに、一言、お会いして御礼申しあげたかったことが、そのままになり、とても残念であり無念であります。

    今も、私のまぶたの前には、60歳頃の白髪のダンディな加島祥造先生が、アメリカ文学史の講義で、フォークナーの「ライ麦畑でつかまえて」の文学解説を数人のクラスで、私に向かって講義をしてくださり、「この中にどんな天才がいるかわからないんだ」と私に向かって目が合った時は、嬉しかったです。
    加島先生、心からご冥福をお祈り申し上げます!本当に大好きな先生でした。

    • 千秋英二
    • 2016年 2月 08日

    加島祥造先生へ
    人間は、肉身を脱いだら、霊の世界へ行くのでしょうか?
    先生の「求めない」という詩集を読んでもその答えはわかりません。

    33年前に横浜国立大学の小さな教室で、先生からアメリカ文学を学んだ教え子が、昨年の6月に無性に加島先生にお会いしたいといった衝動にかられたのは、何かが引き寄せていたのかもしれません。加島先生には、大学の講義に参加した学生だけでも何千何万人という教え子がいたことでしょう。
    私は、その中のたった一人に過ぎません。

    人生いろいろある中で、なぜか、加島祥造という教授の名前だけは、54歳になっても忘れることはなかったです。ある大学に転職してすぐに、加島先生に長い感謝の手紙を書きました。具体的な内容は書けませんが、私の生き様を恩師に知って欲しいと思い書きました。
    それから長野県の先生のご自宅にうかがわせていただくお約束もいたしました。なぜだか、お会いしたいという気持ちがずっとつづくのです。

    春になったら必ず訪ねにうかがおうと毎日のように思っていた中で、訃報にふれたのは、1月下旬です。
    その時のことは、前回のコメントを書きました。

    加島先生
    なぜだか私は取り残されてしまった思いでした。もうすぐ49日です。そして今日、電話を通して私の手紙を読んでくださった時の加島先生のご様子をお聞きすることができました。加島先生は、私の手紙を読んで、そんな何十年も前の教え子から手紙をもらって本当に喜んでうれしそうな笑顔を浮かべてくださったということを聞きました。
    そのお話を電話で聞いた瞬間、実際はお会いして感謝を伝えることはできませんでしたけど、私の気持ちは恩師にしっかりと伝わり、恩返しできたんだとうれしかったです。

    加島先生
    恩師に対して教え子が、言うのは生意気ですが、魂は永遠です。次の世界で、加島祥造先生が元気にお話をされている姿が目に浮かぶようです。
    私はまだやることがたくさんあります。先生の教え子として恥ずかしくないように、一生懸命生きて私も頑張ります。
    そう、今日、思いました。

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