_
1991年・佐賀での、中学卒業から12年ぶりの同窓会を舞台に起きた殺人未遂事件。
犯人の赤司良治氏は、中学時代に壮絶ないじめを受け、いじめっ子たちに復讐する機会と準備をずっと進めていたのです。
詳しい真相が7月6日の「超実話ミステリー」で放送されますが、「佐賀同窓会殺人未遂事件」の内容について紹介します。
犯人・赤司良治氏がうけた壮絶ないじめ、家庭環境、12年の間のことを記した手記などを、画像ととも迫ります。
目次
超実話ミステリー■ 赤司良治「12年ぶりの同窓会殺人未遂事件」概要
1991年1月13日、佐賀地裁から爆発物取締罰則違反、現住建造物等放火予備、殺人予備の罪で、無職・赤司良治被告(当時28才)が懲役6年の判決を受けました。
事件は、中学時代に赤司良治氏をいじめた同級生を大量殺害しようと企てたことから始まりました。
赤司良治氏は自ら中学時代の同窓会を企画し、同級生らが大量に集まる機会を作り出しました。
そのうえで、1990年12月から
「化学薬品及びガソリンを使用した時限式爆発物3個」と
「致死量のヒ素化合物を混入させたビール21本」
を用意しました。
1990年12月31日に同窓会会場であるホテルに毒入りビールを持ち込み、翌1991年1月2日17:00からの同窓会に備えました。
ちなみにこの日は40~50人が出席する予定でした。
しかし赤司良治氏の母親が息子の不審な様子を察知して、知り合いの警察官に相談したことから殺人計画が発覚し、犯行は未然に防がれたのです。
佐賀県警は1月2日、赤司良治氏を措置入院させ、精神鑑定を実施しますが「責任能力は問える」という医師の判断を得て、1月22日に逮捕しました。
なお、発覚した時限爆弾が開封する際に爆発して、処理にあたった警察官3名が重軽傷を負っています。
↓これは、赤司良治が犯行計画直前の12月29日、大学時代の友人にワープロで口述筆記させたものです。
自分自身を許すことができないのか?いや違う。
私は私に屈辱を強い、私を虐待し、虫けらのように扱った愚者共が許せないのだ。
私は奴らをこの世から消滅させ、そして、私自身も消滅する。
決行の時は来た。私が彼らに死を与えるために計画した同窓会・・・その場で私は永遠の夢だった私自身の死へのあこがれを実現し、私をいたぶった奴らに対する死という名の制裁を与える。
刻一刻とその瞬間は近づいてきた。
私はいま、胸の高鳴りを押さえながら細く周到に準備を続けている。
>>画像
超実話ミステリー■ 赤司良治 小学校時代
赤司良治氏は、1964年、中学校の英語の先生をしている父親と、中学校の音楽・養護の先生をしている母親のもと、長男として、佐賀県で生まれました。
学区内の小学校に入学したのですが、同級生になじむことができず心配した両親、が小学校3先生の時に学区外の小学校に転校させました。
そして中学進学時も、そのまま学区外の佐賀県「上峰村立上村峰中学校」に入学しました。
しかし、ここで壮絶ないじめを受けることになります。
超実話ミステリー■ 赤司良治 中学時代 壮絶ないじめにあう
赤司良治氏は、中学時代に壮絶ないじめを受けていました。
・ヘッドロックをかけられる
・頭を殴られる
・プロレスごっこの最中にイスで頭を叩かれ、何針も縫う
・掃除用具のロッカーに閉じ込められる
・女子の前でズボンを脱がされ裸にされる
・ドブ川の水を飲まされる
どれもひどいものばかりです。
赤司良治氏は、小学校でも少しいじめがあったようですが、中学校に入るといじめがエスカレートしたのです。
中学生になると、体格差が出てきて、小さい子はいじめに狙われやすくなります。
赤司良治氏は、体が小さくても強情でした。
いじめられても、「何すんだよ」と言い返すので、いじめっ子からは「生意気な奴だ」とターゲットにされたのです。
■教師や両親は取り合わなかった
赤司良治氏はいじめにあったことを、教師や両親に何度も訴えました。
しかし彼らは
「お前にも悪いところがあるからだ」
「きちんと立ち向かえ」
などと取り合わなかったのです。
両親揃って学校の教師であり、しかも父親は赤司良治氏が通う中学の先生だったので、かえって問題化させることを避けてしまったのです。
息子の心配よりも、自分たちの世間体や立場のことを優先させたのです。
超実話ミステリー■ 赤司良治 高校時代 復讐のための技術を学ぶ
赤司良治氏は中学を卒業後、佐賀県立神埼農業高校にの食品化学科に入学します。
同級生たちに対する復讐の準備をするためでした。
>>画像
超実話ミステリー■ 赤司良治 18才から殺人を考える
赤司良治氏は、18才の頃から復讐を考えていたことを手記に綴っています。
私は18、すなわち高校を卒業した時から、いつか、私が死んで、そして、私を苦しめた愚純な奴らも道ずれにしてやろうと考えていた。
人生の最大の夢であった。
そのためだけに私は生きてきた。
人間の生命を死に至らしめるのにういかなる手法があるのか。
私はいくるか考えてみた。
手っ取り早くやれば殴り殺す。
つまり喧嘩だ。
しかし、私んは人間を素手で殺せるほどの力量が悲しいことになかった。
ましてや複数相手にできる訳がない。
大体喧嘩が弱かったから惨めな少年時代を送ったのであって、その場でバカな奴らに一泡吹かせることができていたら、後で復讐しようなどとは考えなかったであろう。
だからこそ、怨念がくすぶったまま、今日まで復讐を成し遂げるためだけに生きてきた。
では、複数の相手を効果的に絶命させるには何が良いのであろうか。私は火薬、すなわち、爆発物を使うことを考えた。
一同を一か所に集めて爆破すれば、多量の人間を一度に始末できる。
超実話ミステリー■ 赤司良治 就職先で薬品を入手
赤司良治氏は高校卒業後、熊本工業大学の応用微生物工学科に進学しています。
大学卒業後は、3つの会社に勤務していますが、いずれも化学に関する企業でした。
★「科学への憧れ」
18の頃から私は人を死に至らしめる方法を様々考えてきたが、結局化学毒素を用いることが私の興味を最も奮い立たせてきた。
私は熊本工業大学応用微生物工学科に入学し、卒業後、福岡の大精食品に就職し、そして、退職後、埼玉の会社に転職した。
全ては化学試薬を扱っているところだ。
そう、私は自分の人生の目的のために大学を選び会社を選んだ。
化学試薬を多量に手に入れるという目的のために
赤司良治氏は勤務先の会社で化学薬品を入手するため、化学甲種取扱免許も取得しました。
それらの薬品を使い、爆薬を融合したのです。
毒入り飲料の外観変化について実験も行い、こういったことはすべて手記に残していました。
超実話ミステリー■ 赤司良治 武器も調達
また、赤司良治氏の復讐の準備はこれだけではありませんでした。
★「復讐の方法」
では、もし、奴らを思うように集めることができなかったらどうすれば良いか。
武器だ。
たとえ腕力がなくても武器、それも銃があれば復讐ができる。
私はモデルガンを改造して憎い奴らを個別訪問で殺すことを考えた。私が人付き合いにたけていたヤ〇ザと友達になって、銃を手に入れたであろう。
しかしそれは私には無理なことであった。
私は東京都内の古道具屋をかたっぱしから巡り歩いて改造可能なモデルガンを探した。
そしてついに見つけた。
壊れていて一筋縄では使えるようにならないであろうが改造可能なモデルガンを見つけた。東京はとてもいいところだ。何でもある。
電話帳で調べ、人づてに聞き、自分の足で歩き、探し続ければなんでも手に入る。
手に入らないものはない。
つくづく東京にきてよかったと思った。
なぜなら東京には自分が復讐するための道具がなんでも揃っているからだ。
不器用だけれども、単車をやっていたおかげで、モデルガンの故障箇所がわかった。佐賀の治金屋に頼んで、ばねをひっかける部品を作らせた。
そして、私自身、技術アドバイスを受けた。
もちろん、モデルガン改造のために。
広く浅く、機械加工は私の楽しみでもある。
銃は護身用にもなる。
最悪の場合、最後の1人は刺し違えても殺ってやる。
四六時中こんなことを考えている奴は病気かもしれない。
超実話ミステリー■ 赤司良治 武器も調達
そして手記は「同窓会の準備」の章へ
★「同窓会準備」
必要な機材、化学毒素はあらかた揃い、実験も済んだ。
私はいよいよ復讐の時が来たのだと悟った。
幸いにして資金にはことかかなかった。
当初は生活を切り詰めて貯金を資金をためるつもりでいた。
だがオートバイ事故で怪我をして慰謝料がガッポリ手に入った。
それが資金となり計画の遂行を可能にさせた。
このようにあらゆる不幸を復讐のための糧にしてきた。
機は熟した。
私は同窓会の会場を手配した。
飲食物持ち込みが自由なところを選んだ。
同窓会を私が計画したということで皆を集めさせた。生きていることはあまりに苦しすぎた。
あまりに辛く、そして、空しかった。
それももうじき終わる。
私を虫けらのように扱った奴らの人生を道連れにして
超実話ミステリー■ 赤司良治 復讐と B型肝炎の希死感
手記には動機について詳しく述べています。
年をとってからの人生に夢も希望も持ちえなかった。
この状態では20才が限界かと考えた。
B型肝炎を患い、薬づけの毎日を送り、ちっとやそっとの投薬量では効かない体になっている。
村上龍のようなぼーっとした状態が続いている。高校を卒業した時から既に頭はおかしかった。
大学に入学したとき、虐げられた今までの人生とはうってかわって楽園がやってきた。
大学とはこんなにいい所か!
それなのに根の性格は烙印を押されたかのごとく変わらなかった。
たとえ今が楽園であっても、こんなにいいことは絶対に長くは続かないと思った。
高校卒業までの屈辱は一時も忘れることができなかった。
あのボケナス連中にいつか仕返しをしているとそればかり考えていた。
自分が法と常識と道徳に背くことをやることは百も承知だった。
赤司良治氏は、23才のときにB型肝炎だと判明して、大きなショックを受けています。
とういうのも、実は赤司良治氏の父親もB型肝炎を患い、1984年・赤司良治氏が20才の時に肝硬変で死去しているからです。
このことも、道ずれにして自分も死ぬという考えに拍車をかけたと思われます。
超実話ミステリー■ 赤司良治 確信犯に懲役6年
手記を読む限り、赤司良治氏は確信犯です。
公判では手記についてこう述べています。
「ある意味で僕の犯行を公にしたいのと、自分の心情を多くの人にわかってもらいたいということで書きました。
でも、犯行を事前に察知されないように、小説ふうに書きました。」
殺意があったことと、計画的な犯行だったことを明確にしたのでした。
赤司良治氏は1990年11月から復讐の準備を始め、「決行の時がきた」というタイトルで手記を作っていました。すなわち殺人計画書です。
公判では計画性を重視して、懲役7年が求刑されました。
裁判所も「犯行は綿密で殺意は明らか」として懲役6年の判決を言い渡しました。
赤司良治氏が中学時代、両親や先生に相談したときに保身に走らず問題と向き合ってれば、こうはならなかったのではと思います。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。