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山本慈昭記念館の山本慈昭さんは、中国残留孤児をその家族に引き合わせた、奇跡を起こした長岳寺の住職です。
満州へ渡って3ヶ月後にロシアの攻撃にあい嫁・娘とはぐれ、その後終戦するも家族は死んだと伝えられ絶望します。
そして一緒に満州へ渡ったたくさんの子供たちもほとんど死んだといわれていたのですが、のちにそれは嘘だったと判明。
中国残留孤児の存在を知った山本慈昭さんは、彼らを日本にいる家族に引き合わせようと必死に努力し、実現していくのです。
国も放置していた問題を、マスコミを動かして世界を変えていきました。
そして娘とも36年後に80才でついに再会を果たしました。
山本慈昭さんの起こした奇跡は山本慈昭記念館に保存され、2014年には映画「望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」で俳優の内藤剛志さんが山本慈昭役を熱演しています。
目次
■山本慈昭とはどんな人物?
中国残留孤児の父・山本慈昭の胸像と開拓団の慰霊碑など pic.twitter.com/2zWt61sIHa
— 脱走兵 (@0209Yasai) 2016年11月27日
長野県・阿智村。ここにある山本慈昭という男の墓には多くの人々が訪れる。
実はこの男、300人もの人々の父親になったという。一体どんな人物なのか?■家族と満州へ
今から、72年前、時は第二次世界大戦のまっただ中、阿智村で教師をしていた山本は、いわゆる満州開拓団として家族とともに中国北部の満州国に渡った。
■シベリアに抑留される
しかし、山本が渡ったわずか3カ月後にはソ連が満州国へ侵攻を開始、開拓団の人々は戦火の中を逃亡する。
そして逃亡生活が1カ月続いた頃、太平洋戦争は終結・・・敗戦国である日本人の男たちはシベリアに抑留されることとなった。
■日本に帰国
家族との再会を夢見て過酷な労働に耐え続け、何とか日本に帰国した山本であったが、衝撃的な事実を知る。妻と子が中国での逃亡中に死亡したというのだ・・・しばらくは立ち直れずにいた山本であったが、突然ある行動にでる。■山本の奇跡とは
1人の男が始めたその孤独な戦いは、次第に大きな輪となって広がり、やがて国をも動かすこととなる。
山本の家族への思いが引き寄せた奇跡とは・・・!?引用:アンビリバボー
山本慈昭さんは1902年生まれ。8才で出家して、1937年35才で阿智村・長岳寺の住職となり、国民学校の教師も兼任しました。
現在は長岳寺の門前に山本慈昭記念館が建てられています。
1945年43才の時、子供たちの教師として、満州開拓団の一員となり嫁と娘2人を連れて満州へわたります。
もともと1年滞在の予定でしたが、3ヶ月後にソ連の攻撃をうけ、1ヵ月の逃亡生活のすえに、嫁・娘と引き離されてシベリアで拘留されてしまいます。
日本の敗戦から2年後の1947年45才の時、日本に帰国。
嫁・娘2人と再会を楽しみにしていたのですが、家族は死んだと知らせを受けます。
満州開拓団の8割は帰国できず死亡、教え子の子供たちも51人のうち生き残ったのは6人だけでした。
その後1964年62才の時に中国を訪れ、家族を遺骨を拾いに行きますが、周恩来総理に歓迎はされたものの、遺骨を集めることは認めれませんでした。
■山本慈昭 娘が生きていた!
翌年1965年、山本慈昭さんが訪中したことを知った中国残留日本人から、日本にいる家族を探してほしいと手紙が届きます。
これによって山本慈昭さんは中国残留日本人孤児の存在を知り、日本にいる家族を引き合わせようと心に決めました。
山本慈昭さんは長岳寺の住職の仕事の合間を縫って、厚生省・外務省・法務省、全て国会議員などを回りしますがいい手ごたえはなく。
実は厚生省には、中国残留日本人孤児から「家族を探してほしい」という手紙が20通以上放置されていたほど。
1969年67才の時、満州開拓団の8割は帰国できず死亡したというのは、嘘だと判明。
当時、帰国した人たちは、自分の命と引き換えに子供たちを中国に引き渡していたのだ。
そして、山本慈昭さんの嫁と次女は死んだというは本当だったが、長女は教え子15人とともに生きているとわかりました。
その後、山本慈昭さんによって中国残留日本人孤児のことはマスコミでも報道されました。
■山本慈昭 ついに娘と再会!
1972年70才の時、日中国交正常化をきっかけにして「日中友好手をつなぐ会」を結成。
山本慈昭さんは、最後の1人を探すまであきらめないと誓います。
そしてついに中国残留日本人孤児と日本にいる家族が、最初の再会を果たします。
1980年には、なんと177人の達しました。
さらに訪中して現地調査を行ったところ、300人の孤児と出会い、その1人の協力で、長女の消息が判明。
1982年80才でついに、山本慈昭さんは黒龍江省で長女と再会できたのでした。
長女は中国に家族がいたのですぐ帰国できなかったのですが、のちに永住帰国しました。
■山本慈昭 300人の父になった男
山本慈昭さんは来日する中国残留日本人孤児たちの心配をして
「きょうから、私がみなさんの父親になります。いつでも日本に来てください。私の家に来てください」
と呼びかけています。言葉だけでなく、実際に自宅を孤児や家族のために開放しているのです。
さらに孤児たちが日本に行く前に中国で日本語を覚えるために、中国黒竜江省と協力して日本語学校を開校しています。
その資金はどこから?実は山本慈昭さんの私財。老齢年金をつぎ込んで、自宅を抵当にいれて借金までしています。
■山本慈昭記念館
山本慈昭さんは1990年に80才で死去されました。
葬儀には全国から孤児たちが集まり、かつての教え子の1人を弔辞を読みました。
孤児やその家族から送られてきた手紙はなんと4万通に達し、「山本慈昭記念館」に保存されています。
「山本慈昭記念館」は「満蒙開拓平和記念館」という名称で、場所は山本慈昭さんが住職を務めていた長岳寺の門前にあります。
■「山本慈昭記念館」
正式名称:満蒙開拓平和記念館
場所:長岳寺の門前
住所:長野県下伊那郡阿智村駒場711-10
電話:0265(43)5580
近くに山本慈昭さんのお墓もあるので、お参りに行ってみては。
長岳寺は中国残留孤児の帰国に尽力した山本慈昭さんが住職だったお寺。武田信玄火葬の寺とも伝わるが、お寺の場所が移転しているため実際に火葬されたのは現在の位置ではないそうだ。信玄公の供養塔や山本慈昭翁像、日中友好不再戦の碑などが立っている。 pic.twitter.com/ImvyqnvrCL
— ユーウェン (@yuwencs) 2017年1月3日
■山本慈昭の実話が原作の映画「望郷の鐘 満州開拓の悲劇」
山本慈昭さんの実話を原作として、「望郷の鐘 満州開拓の悲劇」というタイトルで映画化もされています。
2014年から日本各地で公開されています。
キャストは
山本慈昭役に、内藤剛志さん。
嫁の山本千尋役を、渡辺梓さんが演じています。
内藤剛志さんの迫真の演技に注目。
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