北朝鮮ゲリラ金新朝(キム・シンジョ)、韓国の朴大統領暗殺未遂事件のその後がアンビリバボー

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1968年に起きた「韓国の朴大統領暗殺未遂事件」について生き残った兵士の衝撃人生が11月23日の「奇跡体験!アンビリバボー」で放送されます。

「韓国の朴大統領暗殺未遂事件」とは、北朝鮮工作員によるゲリラ隊が、ソウルの大統領官邸にいる朴大統領を暗殺しようとした事件。

ゲリラ隊31人のうち、唯一投降した金新朝(キム・シンジョ)の記者会見の発言は韓国国民に衝撃を与えました。

金新朝(キム・シンジョ)は逮捕されたその後、洗脳を解かれますが両親は処刑され・・・絶望の淵から愛の力で再起していきました。
  
  

 
 

■「韓国の朴大統領暗殺未遂事件」アンビリバボーあらすじ


1968年2月、韓国の山中で、村人が軍人と出会った。
実はこの男たちは“国家トップ暗殺”の任務が与えられていた北朝鮮のゲリラ兵であった。
ゲリラ隊から「通報をすれば皆殺しだと」脅しを受けるも、村人はその脅しには屈せず、警察に通報。
ゲリラ隊は首都にたどり着いたが、警察・軍と激しい銃撃戦となり、多くが射殺され、1人が投降した。
投降したゲリラ兵は「我々は朴(パク)大統領の首を取りに来た」と会見で彼らの目的を明らかにした。

彼の名は、金新朝(キム・シンジョ)、朝鮮人民軍の特殊部隊の兵士。
今年罷免されたパク・クネ大統領の父であるパク大統領を暗殺に来たと言う。
北朝鮮のゲリラ兵であったキムは、なぜ“大統領暗殺”という、あえて自らの罪が重くなるようなことを会見で話したのか?

ただ1人生け捕りにされたゲリラ兵と、韓国取り調べ官の行き詰まる心理戦の始まり。
さらにキムの第二の人生がスタートする。
引用:アンビリバボー

アンビリバボーに先駆けて「韓国の朴大統領暗殺未遂事件」と北朝鮮ゲリラ金新朝(キム・シンジョ)のその後について、紹介します。

■「韓国の朴大統領暗殺未遂事件」北朝鮮ゲリラ隊が侵攻


■ゲリラ隊が出発

1968年1月
氷点下25度の北朝鮮。ゲリラ隊として工作員31人がバスに乗り、開城市南東部にある工作員招待所へ向かいました。
約20kgの装備には、機関短銃・拳銃・手榴弾などの武器、変装するための韓国軍の軍服、韓国の地図、バーバリーのコートやスーツ・スニーカー、腕時計・望遠鏡・ラジオなどが入っていました。

工作員たちは当初76人体制で、青瓦台(ソウルにある大統領官邸)、在韓国米国大使館、韓国陸軍本部、ソウル刑務所、西氷庫スパイ収容所の5か所を攻撃する予定でした。
しかし攻撃対象が変わってソウルの青瓦台にいる朴大統領暗殺だけが任務となり、ゲリラ隊の人数は31人に減りました。

そして作戦決行の日。夜9時に北方分界線を越え、非武装地帯の安全通路を息をひそめて進みます。最後尾の2人が足跡を消しながら、警備の四角を歩いていきました。

昼間の明るい間は潜伏し、日が沈んだら移動する。そうやってゲリラ隊は重たい装備を背負いながら、開城からソウルを目指し、時速12kmで走り続けました。

■ゲリラ隊が山で村人と遭遇

ある朝、偵察に出かけた2人が山で村人と遭遇するアクシデントが発生。
ゲリラ隊は韓国軍の制服を着ていましたが、こんなところに韓国兵2人がいるのは不自然なので、北朝鮮の工作員だとバレたに違いありません。

北朝鮮のルールでは、民間人に見つかったら通報されるのを防ぐために、すぐに殺して地中に埋める決まりです。

しかし地面が凍っているので穴を掘るのは面倒。ゲリラ隊は話し合った結果、次に移動するときに村人を帰すことにしました。
村人には「通報をすれば皆殺しだと」と脅して解放しました。

また、不安になったゲリラ隊は、無線で北朝鮮の上官に指示を仰ぎました。しかし上官が言った数字の暗号文を誰も解読することができず、そのまま任務を続行することに。
※実は暗号は「原隊復帰」=北朝鮮へ帰って来いという意味でした。

■警察署所長を射殺

1月20日の早朝、氷点下20度のなかゲリラ隊はソウル市の北にある北漢山の碑峰に到着しました。
明日の夜には青瓦台を襲撃する計画ですが遅れています。
しかし雪の岩場を進んでいるうちに方角を見失い、夜が明けてもまだ北漢山にいました。

空が明るくなると、ヘリコプターがゲリラ隊の頭上を旋回。村人がゲリラ隊の脅しには屈することなく警察に通報していたからです。

ゲリラ隊は逃げようにも体力を消耗していたので、私服に着替えてバーバリーのコートを着て、機関短銃・拳銃・手榴弾を持ち、ほかの荷物は地面に埋めて身軽になって移動しました。

すると途中、警察の検問に遭遇。鍾路警察署長が身分証の提示を求められました。

ゲリラ隊は「自分らは防諜隊員で、これから隊に戻る途中なので身分証を携帯していない」と釈明しましたが、署長を知らない防諜隊員がどこにいるのかとしぶとく問い詰められ、銃で射殺。

■警察・軍と激しい銃撃戦 金新朝(キム・シンジョ)が逮捕

ゲリラ隊は警察・軍と激しい銃撃戦となり、ソウルにたどり着いた工作員31人のうち、29人が射殺され、1人が逮捕され、1人は北朝鮮へ逃げ帰りました。
※逃げ帰った1人は北朝鮮で英雄となり、対南工作の指揮官に出世。

逮捕された1人が金新朝(キム・シンジョ)。隊が署長を殺したあと、北朝鮮に引き返そうとして仁王山に登って逃げましたが、斜面の8合目あたりで岩陰に隠れていた韓国兵と遭遇。

北朝鮮の工作員は、捕まる時には自殺するよう教え込まれているので、金新朝(キム・シンジョ)は手榴弾を手にしました。しかし3年間会っていない嫁や子供の顔が目に浮かび、「投降して生き延びよう」と自殺を思いとどまりました。

そうして当時27才の金新朝(キム・シンジョ)は韓国兵に逮捕され、ソウル市西大門区弘恩洞の警察署へ連行されたのでした。ちなみに手榴弾は不良品で爆発しないものでした。金新朝(キム・シンジョ)は自殺できない運命だったのです。
  
  

 
 

■「韓国の朴大統領暗殺未遂事件」北朝鮮ゲリラ 金新朝(キム・シンジョ)のその後


■捕虜になり1年間の尋問

金新朝(キム・シンジョ)に韓国軍に逮捕され捕虜となり、解放されるまでの約1年間、尋問を受け北朝鮮での26年間を語りました。

尋問といっても韓国の捜査官は常に紳士的でしたが、北朝鮮にいる嫁と子供たちが拷問を受けていないか心配でした。

射殺された29人の仲間の遺体確認の時は、複雑な思いがしたものの生きていてよかったと思ったそうです。

そうして金新朝(キム・シンジョ)の供述によって、北朝鮮における特殊部隊の存在が明らかになりました。

■大統領の首を取りにきた

金新朝(キム・シンジョ)はテレビの記者会見で「私は朴正煕大統領の首を取りにやってきた」と宣言して韓国国民に衝撃を与えました。

軍事独裁を続ける朴大統領が殺されれば、韓国国民は必ず労働者革命を起こすと分析していたようです。

当時の韓国は現在のような先進国とは全く違い、北朝鮮のほうが国防力や経済水準で勝っていました。

金新朝(キム・シンジョ)の「大統領の首を取りにきた」発言で刺激され、国防力の補強や、経済発展につながりました。

■金新朝(キム・シンジョ)の第二の人生


画像引用:中央日報

金新朝(キム・シンジョ)が逮捕されたのは1968年2月。
韓国軍の捕虜となり1年後に解放されたあと、洗脳から解かれ、1970年に韓国の市民権を得ました。

しかし同時に、北朝鮮で両親は処刑され、親族は北朝鮮を追放されました。

金新朝(キム・シンジョ)は民間企業で勤務し、本人の意思とは無関係に第二の人生がスタートしました。

しかし金新朝(キム・シンジョ)は北朝鮮を失い、生きる支えが何一つありませんでした。

そんななかキリスト教で出会い、イエスに救われます。絶望から愛の力で再起します。

1991年にソウル浸礼新学校を卒業後、1997年に牧師の按手を受け、現在は韓国の忠清南道禮山郡にあるキリスト教会「禮山聖楽教会」の牧師となっています。

また、手紙で慰労してくれた嫁と結婚して子供も2人、息子と娘が1人ずついます。

工作員から牧師へ転身したアンビリバボーな人生。テレビでは詳しく感動的に紹介されるでしょう。
 
 

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