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『財田川事件』とは1950年代に起きた強盗殺人事件で、死刑判決かのあと弁護士が再審で無罪を勝ちとった判例のひとつです。
自白を強要されたばかりか、真犯人の証拠をねつ造された谷口繁義さんが、冤罪を晴らした歴史的裁判の裏には、ある人物の人生を賭けた決断がありました。
判事の矢野伊吉さんが弁護士となり、現場の証拠や血液鑑定など、真犯人ねつ造の証拠を暴いたのです。賠償金も支払われました。
そんな『財田川事件』は、死刑判決を覆すことは不可能といわれた時代に、ほかの3つの判例とともに『四大死刑冤罪事件』として有名です。賠償金もそれぞれいくらだったか見てきます。
目次
■財田川事件とは?判事が弁護士になり谷口繁義を冤罪から救った!
■『財田川事件』発生
1950年(昭和25年)
2月28日
香川県の財田村で強盗殺人事件『財田川事件』が発生。闇米ブローカー杉山重雄がパジャマ姿で殺され、現金約13000円(現在の約100万円)が盗まれました。しかし香川県警は犯人を見つけられず・・・被害者は嫁と別居中でした怨恨もありませんでした。
■谷口繁義が別の強盗事件で逮捕
4月1日
隣町の神田村で、19才の谷口繁義さんと仲間Aが農協で強盗と傷害事件を起こし逮捕されます。2人は地元で「財田の鬼」の異名をもつ札付きのワルだったため、警察は『財田川事件』の殺人容疑でも取り調べ。
『財田川事件』で仲間Aはアリバイあり。しかし谷口繁義さんはアリバイなしのため真犯人はコイツだと。現場の証拠もないのに警察は、自白を強要するため殴る・蹴る・脅迫など拷問という名の取り調べを2ヶ月以上続けました。
■自白を強要され、死刑判決
7月26日
谷口繁義さんは自分が真犯人だと自白。季節は春から夏。もう心身ともに限界でした。
8月23日
『財田川事件』の真犯人として起訴され、裁判では「自白は強要された」と冤罪で無実を訴えましたが、翌年1952年(昭和27年)1月25日高松地裁で血液鑑定をもとに死刑判決、4年後1956年(昭和31年)6月6日2審でも死刑判決・・・
1957年(昭和32年)1月22日
谷口繁義さん26才
最高裁で死刑が確定しました。
■矢野伊吉判事が冤罪から救うため弁護士に
死刑確定から12年後
谷口繁義さん38才
1969年(昭和44年)、矢野伊吉さんが高松地裁の判事に就任し、谷口繁義さんの無罪を訴える手紙を偶然読み、その純粋な気持ちを知りました。するとなんと判事を辞めて、冤罪から救うため矢野伊吉さんは弁護士に転身して再審請求活動をはじめました。
1979年(昭和54年)、矢野伊吉弁護士の努力で、10年かかって再審がスタート(谷口繁義さん48才)
再審は5年かかり
1984年(昭和59年)3月12日、高松地裁が再審でついに無罪判決。冤罪を晴らすまで33年11ヶ月かかりました。谷口繁義さんは白髪が目立つ53才となってました。人生の大半19才~52才まで拘置所暮らししたわけです。
■財田川事件とは?真犯人は見つかってない。すでに時効
真犯人は結局、見つかってません。
谷口繁義さんが自白して警察は真犯人だと決めつけてますから捜査はそこでおしまい。時効も成立してるので真犯人はそのまま逃げ切り、現在はどこかで生きてるか、高齢で死んでるかもれません。
ただ、真犯人かもしれない怪しい人物はいます。
■真犯人説1 第一発見者の女性
第一発見者がまず犯人として疑われるのは小説やドラマでもお馴染みです。
第一発見者は米を買いに来た女性でした。しかし駅前で食堂を営む被害者の別居中の嫁に知らせただけで、警察には知らせず地元へ帰ってしまいました。
逃げた理由は、事件に巻き込まれるのを恐れてということですが・・
■真犯人説2 第二発見者の男性
第二発見者は、19:00頃に米を買いにきた別の男性でした。
米を買いにきた人は他にもいたかもしれないし、真犯人は客を装い近づいてきたかも。
■真犯人説3 警察関係者
現在ではありえないですが、警察関係者のなかに真犯人がいて、その人物を守るために、谷口繁義さんを真犯人に仕立て上げたという説です。
もし本当なら、普段から素行が悪く、強盗傷害を起こして逮捕され、アリバイもなかった谷口繁義さんはちょうどよかったのだと思います。普段から評判が悪い人間が罪を犯すと、周囲も「やっぱり」「いつかやると思った」など同調するのはよくあることです。
■財田川事件の問題点 現場の証拠鑑定のねつ造を矢野伊吉弁護士が暴いた
■『財田川事件』の現場
『財田川事件』の現場は、現在の香川県財田町です。
■現場にあった証拠とは
現場検証で見つかった証拠は
● 被害者が、全身30箇所に刺し傷・切り傷を負っていた。
● 凶器・奪われた現金・犯人の指紋は見つかっていない。
● 現場に残された血の付いた足跡(谷口さんの革靴と不一致)
これだけ。証拠はないに等しい。谷口繁義さんを真犯人に結び付ける証拠はありません。
■裁判の争点となった証拠がヤバい
裁判の争点となった証拠は
● 強要された自白
● 谷口繁義さんのズボンに付着した血痕の血液鑑定書
ズボンについた血液型は、東大の古畑種基教授が鑑定してO型でしたが、谷口繁義さんの血液型とは不一致。それなのに最高裁は2通の鑑定書を証拠として死刑判決を下しました。
■証拠のねつ造を矢野伊吉弁護士が暴いた
1979年から始まった再審で矢野伊吉弁護士は、警察の証拠のねつ造を暴いていきました。
● 自白は拷問による強制である
● 第1鑑定書は、ズボンにあった血痕らしいシミを寄せ集め、経験の乏しい大学院生が行い信用性に欠ける。
● 第2鑑定書で検査した血痕は、第1鑑定のあとに警察・検察がズボンに付着されたねつ造の疑い。
● そもそもそのズボンを谷口繁義さんは履いておらず、どこから押収しから不明。
● 谷口繁義さんが当時履いていた革靴は、現在の足跡と不一致で、しかも警察が紛失して裁判に証拠提出されていない。
など、疑問点や矛盾点や不明点を次々に指摘していき、冤罪を晴らして無実を勝ち取ったのでした。
■財田川事件の賠償金はいくら?ほかの冤罪の判例は?
矢野伊吉弁護士の努力によって、死刑判決後に無実確定した谷口繁義さんには、賠償金がいくら支払われたのでしょう?
実は、賠償金ではなく「刑事補償金」というお金が9000万円ほど支払れています。
「刑事補償金」とは冤罪に対する補償金のことで、金額は刑事補償法で拘束1日あたり1000円~12500円と定められています。
賠償金は、公務員の不法行為によって損害を受けたときに請求できる「国家賠償法」がありますが、適用されません。
単純に9000万円と聞くと大金ですが、拷問まがいで自白を強要され34年間も拘留されて9000万円はすくないです。1年あたりたった264万円です。
■4大冤罪事件 『財田川事件』以外の判例の賠償金は?
死刑確定後に、無罪確定した冤罪事件は
『財田川事件』のほかに
『免田事件』
『島田事件』
『松山事件』
があり『4大冤罪事件』と呼ばれています。『財田川事件』以外の3つの判例の賠償金(刑事補償金)はいくらでしょうか
■判例1 免田事件
1948年
熊本で祈祷師一家が襲われ、現金が盗まれ、夫婦が殺され、娘2人が重傷を負った事件。警察は米を盗んだ23才男性を殺人で再逮捕して死刑判決。31年後に無罪確定。
賠償金(刑事補償金)は
9071万2800円(拘束12599日×7200円)
ほとんど裁判費用で使いました。
■判例2 島田事件
1954年
静岡県の幼稚園で6才の女児が行方不明になり山林で遺体が発見された。警察は知的障害者の25才男性を理由なく拘束し、窃盗で逮捕したあと殺人で逮捕。34年後に無罪確定。
賠償金(刑事補償金)は
1億1907万9200円(拘束12668日×9400円)
この判例では国家賠償金がプラスされてます。
■判例3 松山事件
1955年
宮城県で一家4人が殺され家に放火。東京で働いていた24才男性を逮捕。28年後に無罪確定。
賠償金(刑事補償金)は
7516万8000円(拘束10440日×7200円)
※どの判例も、自白の強要や、警察の証拠ねつ造がされています。現在はこういうことがないよう祈ります。
■最後に
谷口繁義さんは当時19才なので少年ですが、死刑判決が下りました。
逮捕から再審開始まで31年かかり、無罪が確定したときには逮捕から約34年がたってました。30年以上も死刑と向き合わされた谷口繁義さんの恐怖と苦悩は計り知れないものがあります。
賠償金9000万円ではとてもつぐないきれません。
谷口繁義さんは2005年7月26日、心不全で入院していた香川県琴平町の病院で死去しました。享年74才。死因は脳梗塞でした。
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