三原山自殺事件 死の立会人富田昌子の真相とは?ニッポンお騒がせ人物伝で明らかに

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1933年の1月と2月、親友の自殺を見届ける「死の立会人」が注目された「三原山自殺事件」が起こりました。
この事件をきっかけにして、三原山の火口に飛び降り自殺する人が次々と現れ、その年は年間900を超える人々が亡くなりました。

「死の立会人」の彼女は、親友2人が火口に身を投げる自殺の瞬間に立ち会っていたのです。いったいなぜ自殺したのか?いったいなぜ2人の自殺に立ち会ったのか?2015年10月21日(水)21時00分からテレビ東京で放送の「ニッポンお騒がせ人物伝」で明らかになるようです。
 
 

 
 

三原山自殺事件の登場人物


★自殺者
●松本貴代子(21才)・・・1933年2月7日に自殺
実践女学校専門部の国文科2年生。万葉集や金塊集が好きな文学少女。
結婚を嫌う潔癖主義者で、同居している87才の祖母が足腰が立たなくなっていくのを見ることを嫌って、自宅で朝食をとることを辞めたほどです。
1932年(昭和7年)春に同級生20人と行った三原山の大自然に魅了されました。

●真許三枝子・・・1933年1月8日に自殺

★死の立会人
●富田昌子(21才)・・・貴代子の親友
貴代子さんとは親友同士で、お互いの兄も仲が良かったです。貴代子さんからはいろいろなことを相談される関係でした。

★貴代子を説得した
●松岡福子(21才)・・・貴代子と昌子の共通の友達
友達の間では「松岡青絹」というペンネームを使っていた。
●松岡福子の母親・・・貴代子を説得した

1933年2月11日 松本貴代子が自殺


松本貴代子さんは以前から家族や親友に「19歳になったら死ぬ」「自分の死体は人目にさらしたくない」と宣言して、富田昌子さんに、自分が自殺するときに立ち会ってほしいと何度も話していました。

1933年(昭和8年)2月7日の夕方、富田昌子さんは友達である松岡福子さん宅を訪れ、彼女の母親に、「貴代子が自殺するかもしれないから思い留まらせてほしい」と懇願しました。
その様子があまりにシビアだったので、福子さんと両親は
2月8日の夕方5時から2時間に渡り、貴代子さんの説得を試みましたが、貴代子さんは明るく笑顔でした。

2月11日午後、心配な松岡福子さんは貴代子さんを誘って散歩にでかけ、今度新橋演舞場の芝居を見に行く約束をして別れました。

福子さんと別れたあと貴代子さんは、渋谷区中通りに下宿している親友の富田昌子さんのもとを訪れ、「最期を見届けてほしい」と懇願し、2人はその日の夜のうちに東京湾汽船菊丸に乗船して大島へ向かいました。

そして、富田昌子さん立会いのもと、貴代子さんは三原山の火山口に飛び降り自殺しました。
 
 

 
 

松本貴代子の遺書


松本貴代子さんは「富田昌子さん宛」と「松岡福子さんの母親宛」の2通の遺書を残していていました。

「松岡福子さんの母親宛」の遺書には、
自殺を説得してくれたことに対する感謝の気持ちと
最終的に裏切るかたちになってしまって申し訳ない謝罪の気持ち
が綴られていました。

1933年1月8日 真許三枝子の自殺にも立ち会っていた


松本貴代子さんの自殺のあと、衝撃の事実が判明します。

松本貴代子さんの自殺に立ち会った富田昌子さんでしたが、実はもうひとりの自殺にも立ち会っていたことが発覚しました。

1933年1月8日、親友の真許三枝子さんが三原山の火山口に飛び降り自殺する際、富田昌子さんが立ち会っていたのです。

世間の目は富田昌子へ 変質者・狂人扱い


二人の親友の自殺に立ち会っていた富田昌子さんは世間の注目を浴び、罵られ変質者・狂人扱いされてしまいます。その精神的ストレスのせいか、昌子さんは持病が悪化して部屋に引きこもり寝込むようになってしまいました。

1933年4月29日、昌子さんは埼玉県の実家で変死しました。これにより、二人の自殺の真相や、昌子さんが自殺に立ち会った真相は謎のままとなり、三原山は自殺の名所と呼ばれることに。

1933年(昭和8年)、この年、三原山では、男性804人・女性140人のあわせて944人もの人が飛び降り自殺しました。
 
 

チフス菌「毒まんじゅう」殺人事件 愛を信じた広瀬菊子の悲しすぎる犯行に女性たちは涙した

【チフス菌「毒まんじゅう」殺人事件】とは、チフス菌が混入された「かるかん饅頭」を送られた医師Hの一家が、チフス菌に集団感染して、Hの弟が亡くなった事件です。

犯人はHの内縁の妻だった39才の医師、広瀬菊子。彼女は正式に結婚する約束を信じてHに5年間もの間、金を貢がされていたのです。

2015年10月21日(水)21時00分からテレビ東京で放送の「ニッポンお騒がせ人物伝」で詳しく紹介されます。
 
 

 
 

HとAの出会いから別れ


広瀬菊子(39才)は、神戸市立市民病院で働いていたとき、実習に来ていた医学生のAと恋に落ちました。
実習の最後の日、HはAにプロポーズしましたが、正式に婚姻届を出すのは、Aが博士号を取得して正式に医師となってからにしようと約束をします。

こうして菊子は内縁の妻となり、結婚式を内々に済ませて、ハネムーンは菊子が費用を出しました。そして、10日間の同居生活のあと、菊子は実家に戻って開業医となり働きながらAに5年間ずっと毎月の学費を仕送りしていました。

しかし実はHの家族からは、菊子は「妾女、淫婦」だと影で白い目で見られていました。

やがてAが医師になり、菊子がAに会いに行くと、なんと「親戚の女です」と周りに紹介され、冷たい態度を取られ、しかもAの家族からは縁を切るように言われてしまったのです。

Aには菊子の他に女がいることもわかりました。それでも1ヶ月いっしょに暮らしましたが、世間体を気にするA一家は、Hの存在を隠したいのかカーテンを閉められ外出を許さず、玄関から靴を隠されることもありました。

また、Aの妹からは「菊子姉さんは賢者としては偉いかもしれないけど、家庭人としてはゼロだ」と罵られました。

菊子とAは結局離婚しました。しかしなぜか弁護士はAに同情的でした。慰謝料はもらえましたが、自分の荷物は着払いで送り返されました。こんな状況なので、菊子は実家に帰ることもできなくなってしまいました。
 
 

 
 

チフス菌入り毒まんじゅうを送る


1939年(昭和14年)4月25日、A一家を恨んでいる菊子は、大丸百貨店で「かるかん饅頭」を1箱購入し、培養していたチフス菌を注射器で饅頭に注入しました。
そして、その「かるかん饅頭」を、Aが副院長を務める舞子病院の元患者の名前を使って、A家に送ります。

「かるかん饅頭」は、AとAの弟が食べて、残りは妹が勤務先の小学校で食べるために持って行きました。

チフスを発病


1939年5月、Aの妹が、勤務先の神戸市立川池小学校(現在の会下山小学校)へ「かるかん饅頭」を持って行き、先生たちに配ってみんなで食べました。

すると、9人がチフスを発病しました。
Aと弟、妹も発病しました。

1939年5月15日、Aの弟は亡くなりました。

こうして事件が発覚しました。

チフスとは?


チフスとは、細菌感染症の1種で、高熱や発疹を伴い、
チフス菌の感染による死亡の確立は18~20%といわれています。
アンネの日記で有名なアンネ・フランクが亡くなった原因もチフスです。

1924年に東京女子医専(現在の東京女子医科大学)を卒業後、医師になった菊子は、細菌研究所に出入りしていました。

事件後


チフス菌「毒まんじゅう」殺人事件は、連日のニュースとなり、世間を騒がせました。

被害者Aよりも菊子に対して同情する女性が多く、減刑を求める声も上がりました。
裁判でHサイドは、Aに肉体的・精神的・経済的にダメージを与えるのが目的で、殺すつもりはなかったと主張し、傍聴席は菊子に同情した女性たちで埋め尽くされ中にはすすり泣く女性もいました。

神戸地方裁判所は、同情の余地があると認め、無期懲役に対して懲役3年の判決を下しました。
 
 

吉田純子と堤美由紀はレズ 生い立ちは子供時代からヤバかった

久留米看護師連続保険金殺人事件の主犯格、吉田純子。彼女は看護学校の同級生で学生の頃からの知り合いの3人、堤美由紀、池上和子、石井ヒト美をマインドコントロールして、保険金目当ての殺人の共犯者にしました。

その3人の中でも堤美由紀は吉田純子は一番関係が深く、レズビアン(同性愛)の関係になりました。マインドコントロールされていくうちに、そうなってしまったのです。

主犯格の吉田純子が、金のために周囲の人間をマインドコントロールで騙すようになってしまったのは、子供時代からの生い立ちに原因があったといわれています。
 
 

 
 

吉田純子と堤美由紀はレズ


吉田純子と堤美由紀は、お互い愛し合ったレズビアン(同性愛者)というわけではなく、吉田純子がレズビアン関係を堤美由紀に強要したのでした。

さらに吉田純子は堤美由紀に、レズビアン行為をしたことによって妊娠したと、とんでもない嘘をついて彼女を追い詰めました。

さすがに堤美由紀も最初は信じず、純子の夫の子供を妊娠したのではと言いましたが、それに対して純子は、
・夫とはずっとセックスしていない
・大学病院の教授に診察してもらった
・レズの妊娠は過去に2~3件ある
・今回の妊娠は4例目となり世界的研究対象になる
などと、いかにももっともらしいことを言って堤美由紀を言いくるめました。
そして、妊婦になったことを口実にして家事全般を堤美由紀に押し付けたのです。

さらにこの妊娠によって、堤美由紀にレズビアン行為を求めやすくなりました。
それはまたとんでもないことで
・子宮内の羊水が減っているので潤す必要がある
・潤すためにはセックスをしなければいけない
・母体がエクスタシーに達するとお腹の子供の知能指数があがる
・エクスタシーがないと逆に知能指数が下がってしまうからセックスが必要
などど、もっともらしいことで言いくるめました。

また、吉田純子は堤美由紀に、レズの男役をさせていました。スカートは禁止はして、パンツルック。香水は男性用のものを使わせました。
 
 

 
 

吉田純子 生い立ちは子供時代からヤバかった


1959年、吉田純子は福岡県柳川市に生まれました。
父親は、純子が小さい頃に自衛隊を除隊した元自衛官で、
自動車修理の商売をしましたがお世辞にも成功とはいえず家庭は貧乏でした。
家計を助けるため母親は内職や家政婦で働きました。
純子には4才年下の弟がいて、父・母・純子・弟の4人家族でした。

吉田純子は、小学校・中学校時代はおとなしかったですが成績は悪く、そのことで母親に叱られていました。いたずらをするものなら体罰が待っていました。そして貧乏なためか見栄を張る虚言癖もこの頃から身についていました。
一方そんな姉に対して4才年下の弟は、成績優秀なスポーツマン。母親も弟を可愛がっていました。
優秀な弟と、落ちこぼれの姉、そんな構図でした。

父親は短気で、ムカつくことがあると母親にあたっていて、
母親はそんな父親が稼ぎが少ないことを子供たちに愚痴っていました。
父親の悪いイメージを吹きこまれた子供たちは、父親になつきませんでした。

こういった、家庭での人間関係と、貧乏による劣等感、プライドの高さが
吉田純子の性格を形成したいったのでしょう。

1975年(昭和50年)16才の頃、奨学金制度の書類を自分ひとりで用意して手続きをして、私立佐賀女子高校の衛生看護科に入学しました。

1978年(昭和58年)19才の頃、吉田純子はニセの妊娠カンパで金を騙し取り、2ヶ月の停学処分となりました。この頃から詐欺を働いていたのです。
1979年(昭和59年)、聖マリア看護専門学校(現在の現聖マリア学院短期大学)に入学し、のちに共犯者にさせる3人、堤美由紀、池上和子、石井ヒト美と出会いました。
 
 

元看護師4人組保険金殺人事件 久留米の黒い看護婦吉田純子と堤美由紀!ニッポンお騒がせ人物伝で全容があきらかに

「元看護師4人組保険金殺人事件」が、主犯格の吉田純子にマインドコントロールされたを堤美由紀にスポットをあてて2015年10月21日(水)21時00分からテレビ東京で放送の「ニッポンお騒がせ人物伝」で紹介されます。

この事件では、元看護師4人組が保険金目当てに関係者を次々に殺害していきました当時の報道では、共犯者たちをマインドコントロールで操ったという主犯格の吉田純子は、3人をマインドコントロールして共犯者にしました。中でも一番深い関係にあったのが堤美由紀。彼女は自分の夫を殺しました・・・いったいなぜこのようなことになったのでしょうか?
 
 

 
 

久留米 元看護師4人組保険金殺人事件


1998年1月24日、主犯格の看護師の吉田純子(当時33才)は、看護学校時代の同級生3人(堤美由紀、池上和子、石井ヒト美)をマインドコントロールして、池上和子の夫の平田栄治さん(当時39才)を睡眠薬で眠らせて静脈を空気を注射し、殺害しました。

これによって彼女たちは、保険会3500万円を手に入れました。

この事件は「黒い看護婦」というノンフィクション書籍となりました。2015年2月にはフジテレビでドラマ化されています。

久留米 元看護師4人組


主犯格の看護師の吉田純子と堤美由紀・池上和子・石井ヒト美らの4人は看護師学校時代の同級生であり、学生時代からも顔見知りでした。

吉田純子は貧しい家の出身のため金銭欲が強い女性で、10代の頃から言葉巧みに周囲の人間をマインドコントロールして、金銭を巻き上げていました。

そして、堤美由紀・池上和子・石井ヒト美も同様にマインドコントロールされ、金を巻き上げられていました。その挙句、保険金殺人の共犯者にされたのです。

事件のあと3人は、吉田純子が住むマンションに各自部屋を購入して、吉田純子のまるで召使いのごとく扱われていました。

吉田純子と堤美由紀はレズビアン


吉田純子と堤美由紀はレズビアンの関係にあり、3人の中ではもっとも深い関係にありました。2人は同じ病院に勤めていて、堤美由紀が男性のことで相談を持ちかけたのをきっかけに、2人の関係は急激に深まりました。

吉田純子は、自分のバックに「先生」がいると嘘をついて、その「先生」に相談内容を解決してもらうと偽って金を騙しとリました。そうやって堤美由紀をマインドコンロールして、やがて肉体関係を迫りました。

ちなみに、池上和子・石井ヒト美に対しても同じ手法でマインドコントロールしています。彼女たちは夫婦関係に悩んでいたのですが、そこへ吉田純子が嘘のトラブルをでっち上げて「先生」に解決してもらう名目で金を騙し取り、従属させていきました。

堤美由紀たちには自分のことを、「吉田様」と呼ばせる女王様のような存在でした。

吉田純子 贅沢と借金のために大金が必要


吉田純子は夫とは別居中で、久留米市内にある高級マンションの最上階に、3人の娘と住んでいました。娘3人は、堤美由紀たちに面倒をみさせていました。

吉田純子は、堤美由紀・池上和子・石井ヒト美と、他の同僚からも金を騙しとっていましたが、「贅沢な暮らし」と「借金返済」のため、大金が必要でした。

池上和子の夫の平田栄治さん(39才)を殺して保険金を手に入れる計画です。

吉田純子は池上和子に、夫が池上和子と子供を殺そうとしているとマインドコントルールして思い込ませました。池上和子の夫はそれまで女性関係のトラブルがあり、そんな夫のトラブルを池上和子は吉田純子に解決してもらっていたので、殺害疑惑をすっかり信じてしまったのです。

殺害方法は、睡眠薬で眠らせたあとにカリウム製剤と空気を注射するというものでした。
 
 

 
 

殺人決行


1998年(平成10年)1月21日、計画を実行しますが失敗に終わりました。池上和子の夫が途中で目を覚ましてしまったのです。

1998年(平成10年)1月23日、再び計画を実行します。ビールに睡眠薬を入れて眠らせて、吉田純子たち4人は池上和子の夫の静脈にカリウム製剤と空気を注射し、殺しました。

そして保険会社からまんまと保険金3450万円を手に入れました。その額のほとんどは吉田純子のものとなり、池上和子は子供を養護施設に預けて、吉田純子といっしょに暮らすことになりました。

2度目の殺人決行


味をしめたのか、金の亡者は2度目の殺人を決行します。1度目から1年と少し後。
今度のターゲットは、石井ヒト美の夫の久門剛さん(44才)です。
吉田純子は石井ヒト美に、石井ヒト美の夫が金銭トラブルを抱えていると吹き込んで、解決するには保険金を得るしかないとマインドコントルールして思い込ませたのです。

1999年(平成11年)3月27日、急性アルコール中毒での死亡を装うため、ビールに睡眠薬を入れて眠らせて、吉田純子たち4人はチューブを用いて彼の胃袋にダイレクトに酒を流し込みました。

しかし彼がなかなか死ななかったため、吉田純子は我慢できなくなり静脈に空気を注射をしました。すると容態が急変し、救急車で病院に搬送後、死亡が確認されました。

そして保険金3300万円のほかに退職金も手に入り、やはりほとんどが吉田純子のものとなりました。

3度目の殺人決行 堤美由紀の母親・・・未遂に終わる


2000年(平成12年)5月、堤美由紀の母親の家に侵入して、彼女にインスリンを注射して眠らせ、首を絞めて殺し、金品を盗もうとしたしましたが、未遂に終わっています。

石井ヒト美が自首して事件が発覚


2001年(平成13年)8月、夫を殺してから2年が過ぎましたが、後悔の念に耐え切れず石井ヒト美が警察に自首して事件が発覚しました。

2002年(平成14年)4月28日、石井ヒト美の供述に基いて行われた捜査によって、吉田純子と堤美由紀・池上和子・石井ヒト美の4人全員が逮捕されました。

その後、警察が主犯格の吉田純子を徹底的に取り調べした結果、
1997年(平成9年)に同僚の看護師から500万円を騙しとっていたことが判明、
他にもいくつもの余罪があったことがわかり、保険金殺害で得た金額を含めてなんと2億円もの大金を騙しとっていました。

4人のその後


・吉田純子(主犯格)
主犯格だと認定され1審で死刑判決。高裁は控訴を棄却。上告しましたが棄却され、死刑が確定しました。
・堤美由紀(純子のレズカノ)
1審で無期懲役を言い渡され、控訴は棄却。上告することはなく、無期懲役が確定しました。
・池上和子
1審の判決前に病死しました。
・石井ヒト美
1審で懲役17年の判決、控訴は棄却。上告することはなく、懲役17年確定。
 
 

池袋で火災 とんかつよしやが火元!(動画)雑司谷鬼子母神御会式祭りの最中 豊島区雑司が谷3丁目明治通りにて

10月18日(日)よる8時40分頃、豊島区雑司が谷3丁目明治通りで火災が発生しました。火元となったのは、オークラ前にあるとんかつ屋の「よしや」だと思われます。どうやらとんかつ店の店員が鍋に火をつけたままその場を離れ、その間に出火したようです。

この火災で明治通りは封鎖されて、消防車が出動、火災現場近くではおよそ6000人が路上を練り歩く雑司谷鬼子母神御会式祭りが開催されていましたので、あたりは一時騒然となりました。

焼けたのは店舗や作業所含めて4棟、210平方mが焼けましたが、幸い怪我人はいませんでした。場所はJR池袋駅からたった800mの距離にありました。池袋から2キロほど離れた位置からも煙を視認できるほど激しい火災でした。
 
 

 
 
とんかつ「よしや」は、店を始めてから50年以上がたつ池袋の重鎮的なお店です。価格も「とんかつ定食650円」とリーズナブルで、かつ美味しいとファンも多いようです。お店を切り盛りしている夫婦は80才を超えているそうですが、今回火災になってしまって、大変残念ですし、お気の毒です。長い間続けてきた、想い出もたくさん詰まっているお店が一瞬で灰になってしまったのですから・・・。


 

火災の状況



 
 

アンビリバボー 2004台風23号大水害!北陸観光バス37人は由良川氾濫で奇跡の生還を果たす

毎年、台風による水害は凄まじいものがあります。2015年10月22日(木)19時57分からフジテレビで放送の「奇跡体験!アンビリバボー」では、そんな台風の大水害の紹介があります。

2004年10月の大型台風23号によって、京都府舞鶴市の由良川が氾濫し、高齢者ばかりを乗せた観光バスが水没しました。そんな、死の淵をさまようことになった乗員乗客あせせて37名の運命とは?

台風大水害


2004年10月20日(水)、兵庫県市町村職員年金者連盟豊岡支部という元公務員たち一行は、北陸観光でバスツアーを開催し、ツアー参加者は平均年齢67才の高齢者が35名、運転手と添乗員合わせて37名が乗っていました。
この日、日本列島には大型の台風23号が近づいていていました。

夕方5時過ぎには一行は観光ツアースケジュールをすべて終えて、福井県の芦原温泉から兵庫県へ帰るところでした。しかしこの頃、台風23号は紀伊半島に上陸して暴風圏内に入り、天候は悪化、激しい暴風雨が吹き荒れ、道路には雨水がどんどん溜まっていきました。

京都府舞鶴市志高では由良川が氾濫してしまい、由良川沿いの国道175号は水没。普段の由良川は川幅が約150mですがこの日はなんと川幅が3倍にまで膨らみました。
夜8時過ぎ、そんな中を観光バスは走っていて、前方を走っていた車は冠水し、水はあっとい間に目の前を覆い、前後の車に挟まれて観光バスは立ち往生、付近のトラックなども合わせて40台が身動きが取れなくなってしまいました。

トラックの運転手によると、たった15分で水は胸の高さまで達したといいます。

夜9時過ぎ。運転手も乗客たちもパニックを起こし、高齢者ばかりの車内でこの非常事態をどう避難するべき考えあぐねているうちに、ついにバスの車内にまで水が侵入してきます。
水位はあっという間に高くなっていき、外に出ようにも出ることができないほど、バスは水没してしまいました。

逃げ場を失った一行は、バスの屋根の上に避難することを決め、車内にあったハンマーで窓ガラスを割って、およそ2時間かけて全員が屋根の上に避難できました。しかし、暴風雨にさらされ真冬並みの体感温度となり、このまま雨に打たれ続けていると高齢者たちは低体温症になる危険もあったのです。

不安でいっぱいの乗客たち・・・しかし実は周り知らない人たちばかりでしたので、お互いの不安を和らげるためにそれぞれ自己紹介を始めます。
そして、みんな生きて無事に帰ろうと、声をかけあって点呼を取り始めました。見知らぬ者同士が、ともに生きようと励まし合う仲間になった瞬間でした。
そうやって9時間もの間、「上を向いて歩こう」を歌ったり、寄り添って座って不安や屋根の上での寒さに耐えようとしたのです。

夜11時半、海上自衛隊がゴムボートで救出を試みますが、川の流れが速すぎて救助を断念しています。

深夜2時には濁流の水位は、立った状態でへその高さまで達しました。使えるケータイが2~3台あったので救助を求め続けましたが、電池切れになりついに1台だけとなりました。

看護経験のある乗客の提案で、体温低下を防ぐために「結んで開いて」をやりました。肩を組んでわっしょいわっしょいと声を出しあう人たちもいました。

10月21日(木)の朝6時過ぎ、一夜明けて日の出とともに海上自衛隊のヘリコプターや京都府警のゴムボートによって、8時48分には乗員乗客37人全員が救い出されました。なおこの模様はテレビで報道されて、水害の恐ろしさが日本全国に知らしめられたのでした。

とても恐ろしい出来事ですね。同時に、あきらめず励ましあったみなさんの強い気持ちに感動しました。

旭化成建材の杭 3000棟リストは10月中!担当者2人の名前は?傾くマンションは他にもあるのか

三井不動産グループが2006年に販売を開始した神奈川県横浜市都筑区のマンション「パークシテシLaLa横浜」が、杭の長さの種類が違い硬い地盤に達していないなど、杭の工法による施工不良がありマンションが傾き大変な問題になっていますね。

施工を請け負った旭化成建材が杭打ち工事を手がけたマンションやビルなど全国の3000棟のリストを、旭化成は10月中に公表すると明らかにしました。

また、横浜市のマンションの杭70本を工事したのは、「現場管理担当者」と「機械を扱うオペレーター担当」の2人だという話です。これについては、会社が担当者に罪をなすりつけているとネット上で批判の声があがっています。

旭化成建材の累計施工実績を見ると、2005には1000件ほどだったのが、2009年には3000件、2014年には6000件と、右肩上がりで施工実績を伸ばしています。ただ今回の横浜のマンションの杭問題で、せっかく築き上げた顧客からの信頼は失われることになりそうです。
 
 

 
 
<h4>旭化成建材の杭 3000棟リストは10月中!


旭化成建材の親会社の旭化成は、旭化成建材が杭打ち工事をしたマンションやビルなど全国およそ3000棟について調査する方針を示していました。公表されるリストでは、都道府県別の所在地などの調査内容が明らかになるようです。

また、三井不動産グループが過去10年間に販売したマンションのなかで旭化成建材が杭打ちを施工したのは、3棟だそうです。ちなみに、現在販売中のマンション95物件は旭化成建材は杭打ち工事はしていないということです。「パークシテシLaLa横浜」だけが旭化成建材が杭打ちをしたようですね。

10月中に3000棟のリストが公表されるということですが、いま、マンションに住んでいる人々は「もしかしたら、うちのマンションも?」と不安になっていることだと思います。とにかく今は公表を待つしかないですね。

<h4>旭化成建材の杭 担当者は2人


神奈川県横浜市都筑区のマンション「パークシテシLaLa横浜」の杭70本を工事したのは、「現場管理担当者」と「機械を扱うオペレーター担当」の2人だということです。

旭化成建材は、2人がこのマンションの他に関わったマンションやビルがどれだけあるのか調査を進めるそうですが、この二人は、姉歯事件のような国会も巻き込む大事件に発展すれば名前が明らかにされるかもしれないですね。
 
 

 
 
<h4>旭化成建材の杭 データ改ざんは70本


神奈川県横浜市都筑区のマンション「パークシテシLaLa横浜」の杭でデータが改ざんされていたのは、合計で70本です。

・最初に判明したのが38本(硬い地盤に達していない6本+長さ不足2本)
 +
・流量計の改ざん45本(杭の先端を固めるセメント量データ改ざん)
 (西棟4本+南棟5本+中央棟36本)
 =
・あわせて70本

旭化成建材の前田社長によると、杭うちデータの改ざんの目的は、「杭が地盤に達していないのを隠そうとしたしていた可能性が高い」そうです。
ちなみに、改ざんに関わったとされる「現場管理担当者」は、15年間同じ仕事についていたそうで、また二重チェック体制もなかったそうですので、会社の責任は大きいと思われます。
 
 

東亜国内航空機羽田空港胴体着陸事故の機長は塚原利夫!女優は由美かおるも感動拍手した驚きの行動とは?

1979年、羽田発・南紀白浜行きの東亜国内航空機が、上空で左側の車輪が出ないというトラブルに見舞われました。乗客乗員71名が乗るこの旅客機の操縦桿を握るパイロットは、25才で国内最年少で機長になった塚原利夫さんでした。

そして、乗客のなかには大物女優の由美かおるさんの姿もありました。そんな緊急事態のなか、塚原利夫機長は乗客を安心させるために、現在では考えられいない方法をとることに。 「当機は片脚のまま胴体着陸を行います」 ・・・乗客はパニックになったといいますが・・・詳しい内容は2015年10月19日(月)20時00分からTBSで放送の「世にも不思議なランキング」にて紹介されます。
 
 

 
 

出発


1979年7月21日、あさ8時38分。東亜国内航空機381便(YS−11機)羽田発・南紀白浜行きは、乗客乗員71名の満席で羽田空港を離陸しました。パイロット機長は、25才で国内最年少で機長になった、経験5年目の塚原利夫さんです。

また、この便の乗客には、当時28才の人気大物女優、由美かおるさんが、南紀白浜で行われる午後のステージのため偶然乗りあわせていました。

車輪が出ないことが判明


飛行機が羽田を飛び立ってから、塚原利夫機長が車輪を格納しようとした際、車輪格納と同時に消えるはずのランプのうち、左後輪のランプだけがほんのちょっと遅いことに気付きました。塚原利夫機長は「もう一度車輪を出して格納しなおすよう」副操縦士に指示し、その時に左後輪が出ないことがわかりました。

副操縦士は車輪を出すために何度も必死でスイッチを操作したのですが、その音が大きかったらしく、客室にいる乗客にまで音が聞こえたので乗客たちは、何かトラブルだろうかと不安になりました。

車輪が出ないことが判明


8時53分、離陸から15分後のことです。塚原利夫機長は羽田管制塔に「引き返したい」と連絡をしましたが、羽田管制塔からの返事は、「房総半島沖で待機するように」というものでした。

塚原利夫機長は機内アナウンスで、左の車輪が出ないこと・南紀白浜には行かず羽田に戻ること・胴体着陸の可能性があること・出来る限りの手を尽くすこと を乗客に伝えました。しかし、アナウンスを聞いた乗客たちの不安は一気に高まりました。

塚原利夫機長 乗客ひとりひとりに説明


多くの乗客から、万一の時にはどうなるのか教えてほしいと言われ、塚原利夫機長は操縦を操縦士に任せて、客室の通路に立って説明をしました。説明を終えたあとは、乗客の不安を拭おうと心を開いてひとりひとりの質問を答えていきました。

乗客のなかに、女優の由美かおるさんがいることに気付いたときは、「由美さんですね、大丈夫ですか?」と声をかけて、彼女も「大丈夫です」と明るく答えたそうです。

ただ、乗客のなかには、塚原利夫機長があまりに若かったため、機長を出せと言い寄るひともいたそうです。自分が5年間機長をしていることを話しても、若い機長に不安を憶えるひともいましたが、塚原利夫機長は操縦席に戻ることしかありませんでした。
 
 

 
 

塚原利夫機長 乗客を安心させるための驚きの行動


乗客の不安を拭いきれなかった塚原利夫機長は、乗客からの信頼を得るため副操縦士に今では考えられないような驚きの提案をします。

それは、「操縦しているところを乗客に見てもらう」というものでした。

乗客が操縦室に入ることはハイジャックを防止するために固く禁止されていますが、当時は、緊急時のすべて機長の判断に委ねられていました。乗客に見てもらうことを決めると、子供たちが操縦室にやってきて興味津々に質問をしてきました。塚原利夫機長たちは子供たちに明るく答えました。これを見た乗客たちはパイロットが普段通り冷静に操縦をしているとわかり、とても安心したそうです。

普段見ることの出来ない操縦席ということで、機縁撮影したり、パイロットに握手を求めるひともいたんだとか。客室からは絶対に見ることのないパノラマ展望も拝めてすっかりリラックスできたようですね。

30分間の”見学会”を終えた乗客たちは「あとはあなたたちにおまかせするしかないのでよろしくお願いします」と、塚原利夫機長の肩を叩いて客室へ戻っていき、見事乗客からの信頼を得ることに成功したのでした。

塚原利夫機長 いよいよ着陸


10時45分、381便は急上昇と急降下を繰り返して車輪を出そうとしましたが、残念ながら車輪は出ませんでした。離陸から2時間以上が経過し、燃料もなくなってきているのでついに着陸のときです。

10時58分、381便は羽田管制塔に緊急事態を宣言し、羽田空港は一時閉鎖されました。塚原利夫機長は、胴体着陸よりも衝撃が少ない片輪着陸をすることを決めます。そして、衝撃で機体が損傷する可能性があるため女性や子供を通路側へと移動させました。ここでも塚原利夫機長は乗客をリラックスさせるために「ジェットコースターを1~2分楽しんでくさい」

塚原利夫機長はバランスを調整しながら滑走路へアプローチしました。そして、381便は絶妙な角度で滑走路へ侵入し、前輪と右後輪でバランスを取りながらスピードを落として左の翼をゆっくり滑走路におろして滑走しました。

左翼が接地すると、381便は右に150度回転して、滑走路から少し外れてついに停止、11時40分、着陸は成功しました。乗客乗員全員無傷でした。ちなみに右に回転したのは、排水溝が見えたのでそこに車輪がハマってひっくり返るのを避けたためです。最後まで機転のきく機長でした。

着陸後、操縦席から塚原利夫機長が出てくると、乗客たちから拍手が沸き起こったそうです。

余談ですが、塚原利夫機長はこのフライトに乗る予定はなかったのですが、欠員が出て急遽ピンチヒッターになったのでした。

左後輪が出なかったのはなぜ?原因は?


左後輪が出なかった原因は、車輪が格納される際に車輪をロックする部品が、金属疲労によって折れてしまったことでした。整備不良ではなく、機体の組み立て時に、組み立てる順番を間違ってしまい、そのせいで部品に余計な負荷がかかったからだそうです。組み立てを間違えるなんてこと、あるんですね。

ちなみに、塚原利夫機長は今もその部品を持っているんだとか。
 
 

台風25号2015進路最新米軍ヨーロッパ 小笠原が危ない!

台風25号2015「チャンパー」が発生中です。西の方角へ進行中ですが少しづつ進路を北寄りに変化させて発達を繰り返し、来週の前半には小笠原諸島に近づく予想です。

気象庁および米軍などの進路最新予想を見ていきましょう。
 
 

 
 

台風25号2015進路最新米軍ヨーロッパ


●気象庁の進路最新予想

気象庁によると大型で強い台風25号2015「チャンパー」は現在、ナリアナ諸島に存在し、
進路を西に時速30キロの速度で進行しています。
中心気圧は975ヘクトパスカル。中心付近の最大風速35m/s、最大瞬間風速は50m/sです。
10月19日(月)の15時には、暴風警戒域を540kmに拡大して小笠原近海に到達する見込みです。
気象庁台風ぜんたい
※出典:気象庁HPより

●米軍の進路最新予想

米軍合同台風警報センター(JTWC)のデータによると台風25号2015「チャンパー」は
中心位置が北緯 15度8分、東経 144度7分。
台風温度は華氏270℃、速度は17ノット(時速およそ31キロ)
波の高さは最大で25フィート(約8メートル)で、
最大風速60ノット(約111m/s)、最大瞬間風速は75ノット(約139m/s)、
10月18日(日)の15時には最大風速105ノット(約194m/s)、最大瞬間風速は130ノット(約241m/s)
という最新予想です。
米軍地球儀
米軍台風25号
※出典:米軍JTWC

●ヨーロッパの進路最新予想

ヨーロッパECMWFによると、台風25号2015「チャンパー」が
たしかに日本の東を北上し、北海道の東をかすめる進路になっていますが、
北海道への影響はかなり大きいように見えます。今回は北海道の被害が心配ですね。
ヨーロッパ台風
※出典:ヨーロッパECMWFより

日本に到達した場合は、強風や高波、暴風や豪雨、土砂災害などに警戒が必要です。
 
  

 
 

豆知識 台風のたまごから発生、衰退まで


 
台風は、たまご~発生期~発達期~最盛期~衰弱期という段階を経過します。

「たまご」とは熱帯低気圧のことです。赤道付近の海上で発生することが多く、海面水温が高い熱帯の海上で発生しやすい上昇気流によって、積乱雲(いわゆる入道雲)が次々と発生します。積乱雲が多数まとまると渦を形成するようになって、渦の中心付近の気圧が低下、またさらに発達して熱帯低気圧になります。これが台風の「たまご」です。

「発生期」には、熱帯低気圧の風速が17m/sを超えたものが台風と呼ばれます。

「発達期」は文字通り発達する期間のことで、最盛期に向けて勢力を増していく期間のことです。暖かい海面から供給される水蒸気をエネルギーにどんどん発達します。

「最盛期」は、勢力のピークです。

「衰弱期」は、台風が衰えていく期間のことです。日本付近に接近すると、熱帯よりも海面水温が低いので、海面からの水蒸気エネルギー供給量が減って、台風は衰弱し、熱帯低気圧や温帯低気圧に変化します。

豆知識 台風の強さ


台風の強さは、台風、強い台風、非常に強い台風、猛烈な台風 というように区分され、
風速が
64ノット(32.7m/s)が強い台風、
85ノット(43.8m/s)が非常に強い台風、
105ノット(54.1m/s)が猛烈な台風、
となっています。
 
 

男女7人集団変死事件 ミュージシャンマリアの悲しすぎる最後が爆報フライデーで切なく明らかに

2004年の10月に「男女7人集団変死事件」 という日本を騒がせた事件がありました。あるカリスマ美人ミュージシャンが、インターネットで心中仲間を集めて埼玉県の公園内の駐車場で集団練炭自殺を遂げたのです。

あるカリスマ美人ミュージシャン・・・それは、1999年に解散した人気ロックバンド「T-BOLAN」のボーカル森友嵐士さんの元妻で、ロックバンド「メリーメリーマリー」でボーカルを務めるマリアでした。2015年10月16日(金)19時00分からTBSで放送の「爆報フライデー」で紹介されます。
 
 

 
 

男女7人集団変死事件


2004年10月12日の朝6時10分頃、10~20代とみられる女性3名男性4名の合計7人が、埼玉県皆野町の「美の山公園」の展望台付近の駐車場に停車したレンタカーのワゴン車の車内で、集団練炭自殺をして全員が命を落としているのを、秩父署の署員によって発見されました。

ワゴン車の車内には、練炭を燃やしたしちりんが4つ置いていあり、遺書が複数見つかったので、一酸化炭素中毒によって集団自殺をしたとわかりました。当時、インターネットで仲間を集めて自殺するいわゆる「ネット心中」としては過去最多でした。

亡くなった男性の1人は、前日の11日の夕方5時頃に、札幌市の男性友人(21才)宛に「秩父の皆野町で車の中に7人いる。練炭自殺」という携帯メールを送っていて、その男性友人はおよそ50分後に秩父署に通報しました。

しかし、秩父の皆野町のどこなのかがその日は特定することができず、翌朝に再び捜索をしたところ、「美の山公園」の展望台付近の駐車場で発見しました。

車内からビニールテープを使って目張りされて、車全体がブルーシートで覆われていました。レンタカーは、前々日10日に都内で若い男性が借りたものでした。


 
 

 
 

インターネットで仲間を集めた女性 マリア


「男女7人集団変死事件」は大きな話題となり、連日のニュースとなりました。そして、インターネットで自殺仲間を集めたとされる中心人物とわかった東京都文京区の無職女性(34才)が、1999年に解散した人気ロックバンド「T-BOLAN」のボーカル森友嵐士さんの元妻で、ロックバンド「メリーメリーマリー」でボーカルを務めるマリアさんでした。

1994年7月、マリアさんは人気絶頂だったロックバンド「T-BOLAN」の人気ボーカル森友嵐士さんと世間には極秘で結婚し、子供も出産しました。

ところがマリアさんは結婚後わずか半年で森友嵐士さんと離婚してしまいます。

実はマリアさんには壮絶な過去がありました。幼いころ、父親から暴力や淫行といった虐待を受けていたのです。過去の影響と子供を出産したことをきっかけに、12人の多重人格障害と診察され、マリアさんはその病気が夫にバレるのを恐れました。ノイローゼになって、産んだばかりの我が子を虐待してしまったりも。

結局、出産してから程なくして、夫婦がお互い望まないことはわかっていても仕方なく協議離婚することになりました。

1998年9月、「歌」ならば多重人格障害に関係なく、想いを伝えることができるという希望を持ったのか、ロックバンド「メリーメリーマリー」のボーカル、マリアとしてメジャーデビューしました。

2003年、マリアさんは新しい伴侶を見つけ再婚しました。しかし、この再婚相手というのが問題で、妻に暴力をふるうDV夫だったのです。二人はすぐに別居し、離婚調停をしながらわずか5ヶ月の娘と都内を転々としました。

2004年10月に自殺する直前、子供を施設に預けました。遺書には子供へのメッセージが残されていました。「ごめんね。お母さんはもう死んじゃうけど、あなたたちを産んで幸せだった」と。

生前マリアさんは、フリーライターの渋井哲也さんにこんなことを言っています。
「前向きに生きろと言われるのは苦しい。かといって、後ろ向きだと死んでしまう。なら楽に生きるために、横向きで生きていければいい」「楽しいことがないのに、どうして生きる理由があるの?」