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1980年の年末に千葉県房総半島の野島崎沖2000km「魔の海域」において、
日本の大型貨物船「尾道丸」がビルほどの高さの三角波という大波に襲われ
沈没の危機に見舞われます。
近くを航行中だった「だんぴあ丸」はSOSを受け、救助にあたりますが、
荒れ狂う「魔の海域」の絶望的な状況のなか、
「だんぴあ丸」の尾崎船長は冷静な判断と、必ず全員を助けるという決意のもと
無事全員を救助して、ともに新年を祝うのでした。
目次
魔の海域で尾道丸がSOS だんぴあ丸が救助に向かう
1980年12月、千葉県房総半島の野島崎沖で
乗組員29人を乗せた日本の大型貨物船「尾道丸」が大波に襲われ、
船首が折れて沈没寸前になりました。
この海域は、船のマストをも超える高さ20mもの大波「三角波」によって
船の沈没事故が多発して「魔の海域」と呼ばれ恐れられている場所です。
ただ、アメリカに行くにはここと通るのが最短ルートなので
貨物船は「魔の海域」を通さざるを得ないとされていました。
12月29日、乗組員25人の大型鉱石専用船「だんぴあ丸」は
南米のチリから日本への帰路を航行中、同じく「魔の海域」で
激しい嵐に見舞われていました。瞬間風速25m以上の暴風雨です。
そのとき、「尾道丸」からのSOS信号を受信します。
「だんぴあ丸」の尾崎哲夫船長(当時47才)は、救助に向かえば自分たちも危険だと
わかっていますが、「尾道丸」を見捨てるわけにはいかず、現場に急行します。
「尾道丸」と通信可能な距離まで接近すると、
「尾道丸」の北浜船長と連絡を取ります。
北浜船長は当然、すぐ助けてくれと要請します。
しかし、尾崎船長は嵐が収まるまで待つことを提案します。
「尾道丸」には石炭が積んであるから、しばらくは沈没しない
というのです。
石炭が積んであるからすぐ沈まない?
なぜ、石炭が積んであるとすぐには沈まないのでしょう?
そもそも尾崎船長はなぜそんなことを知っているのでしょうか。
それは、尾崎船長が大学の卒業論文で、
「沈没のメカニズム」をテーマにしていたからでした。
尾崎船長によると、石炭は浸水率が小さいという理由で
すぐには沈まないということでした。
嵐がやまない
SOSから2日後の12月31日の大晦日、まだ嵐がやむことはありませんでした。
船首が折れ曲がった「尾道丸」は、船内が丸見えになっているような
ヒドイ状態ですから、すぐには沈まないと言われても
当事者の船員たちはいつ沈むかという恐怖で精神は限界状態です。
すぐ目に見える距離に「だんぴあ丸」がいるわけですから
海に飛びこんで泳いでたどり着きたいくらいです。
その様子を見た「だんぴあ丸」の尾崎船長は
彼らを安心させて、冷静になってもらうために
危険だとわかりつつも「だんぴあ丸」と「尾崎丸」の近くに
寄せるよう指示を出しました。
嵐のなかで船を近づけるのは大変危険な行為です。
尾崎船長が危険を冒してまで尾道丸を助ける衝撃の理由
尾崎船長はなぜ、危険を冒してまで「尾道丸」を助けようと
するのか?それには驚きの理由がありました。
10年前の1970年2月9日に「かりふぉるにあ号」という日本船
が沈没していて、その船に、尾崎船長の友人が乗船していました。
彼は助ったのですが、彼が言った言葉に
「自分は助かったが、ずっと一緒だった仲間が死んでしまった。
この悲しみは忘れることができない」というのがあり
それを聞いた尾崎船長は、自分に同じようなことが起きた場合、
絶対に犠牲者は出さないと決心したといいます。
また、尾崎船長や操機長らは創価学会員であり、
救助の成功を祈って、ずっと題目を唱えていたそうです。
元旦。ついに嵐がおさまる
年が明けて1981年の元旦の朝4時、ついに嵐が収まり、
「尾道丸」の船員の救助が始まりました。
全員寝不足です。2日間で寝たのは1時間くらいウトウトしたのみ。
救命いかだ3隻を使って救助しましたが、
海にはサメも寄ってきていて大変危険ななかでの救助です。
また、海ではスコールが2時間おきに発生するので、
2時間が目安です。そういった緊張感もありました。
そして、無事、犠牲者を1人も出すことなく、救助に成功します!
しかも、「だんぴあ丸」では、
元旦を迎えるにあたり、おせちなどお正月料理を用意していたのです。
「だんぴあ丸」と「尾道丸」の総勢59人は、
命の尊さを実感しながら、いっしょにお正月を祝ったのでした。
もともとは25人分しかなかったお正月料理を、
59人に分けて用意していてくれたのです。
おトソを飲んだ「尾道丸」の船員たちの目には、涙があふれていたといいます。
その後、尾崎船長には、民間の海難救助活動として初めての
総理大臣表彰が贈られました。
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